日本の古典的住宅形式の一つで,近世の武家を中心とする住宅の基本的形式をいう。平安時代の貴族の住宅形式であった寝殿造を母胎とし,中世における生活様式の変化のなかで,日常の生活機能を充足するために変容と改良が加えられた。室町時代初期ごろ,座敷飾の諸要素(押板(おしいた),棚,付(つけ)書院)が出そろい,同時代中期の応仁の乱前後の時期に盛行した会所(かいしよ)座敷の飾りに,押板,棚,付書院を組み合わせて装置し,置物を飾る風習が成立した。この座敷飾は中世末までに会所の枠をこえて住宅の主座敷を飾る方式として定着した。同じ時期に住宅屋内の機能別専用空間化が進行し,間仕切建具の発達によって屋内を諸室に細分し,各室に畳を敷きつめるなどの一連の変化が生じた。足利義政が応仁の乱後に経営した東山殿の常御殿や会所の屋内諸座敷の構成は,これらの一連の住宅形式の新傾向を採用したものであった。慈照寺(銀閣寺)の東求堂は東山殿の遺構の一つであり,その屋内北東隅にある書院の同仁斎は四畳半の畳を敷きつめた小室で,北面に一間の付書院と間半の違棚をつくりつけていて,室内外の形式と意匠に書院造の諸特徴をそなえ,書院造最古の遺構とされる。
近世初頭の慶長・元和年間(1596-1624)には武家大名の邸宅が各地で造立された。大規模な殿舎群は表向きと奥向きに大別され,表向きの広間,対面所,御座間と,奥向きの御上(奥方御殿)の主要建物は,ひとしく発達した書院造形式のものであった。それらの屋内諸室は床(とこ),棚,付書院,納戸構(なんどがまえ)の座敷飾を装置した座敷(上段間につくる場合が多い)を上座とし,二の間,三の間などの下座,納戸などを付属した構成をもち,四周に広縁,入側縁をともなった。これらの諸室の間仕切には襖障子をたて,鴨居(かもい)の上は欄間または小壁につくる。室内は畳を敷きつめ,上座は一段高く上段につくって下座と区別した。天井は上座を折上(おりあげ)小組格天井(ごうてんじよう)または格天井とし,下座の小組格天井または棹縁天井(猿頰(さるぼお)天井,平縁天井)と仕上げを別にした。壁は土壁の素肌を露出しないで張付壁に仕立て,小壁は古くは白土塗りとしたが,のちに張付壁に仕立てた。張付壁,襖障子,格天井には金箔地に濃彩の絵が描かれ,欄間には彫刻を彫り彩色をほどこし,長押(なげし)の釘隠(くぎかくし)をはじめ諸所に飾金具を打ち,諸座敷は華麗な色彩と光で豪華によそおわれた。外回りの建具は引違障子(舞良戸(まいらど)と明障子(あかりしようじ)の併用または腰高障子)をたて,また雨戸が発明されて外縁を内縁に転化する工夫が加えられた。このような大規模の書院造遺構は二条城二の丸殿舎,西本願寺表書院に典型的作例を見いだせる。
江戸時代の明暦3年(1657)の大火後,幕府は建築の規模,構造,意匠を制限する禁令を出し,経費の節約,奢侈(しやし)の抑制を図り,封建的身分秩序を住宅にも及ぼして厳しく取り締まった。すなわち書院造は武士以上の封建的支配階級の住宅の基本的形式として格付けされ,上層の町人や農民の一部をのぞいて庶民住居への普及を制限した。書院は本来は禅寺の用語で,禅僧の住房のうちの居間兼書斎の呼称として始まったが,座敷飾の成立以後,座敷飾をそなえた座敷あるいは建物をひろく書院と呼ぶ慣行を生んだ。明暦大火以降,大規模住宅では大書院,小書院,居間書院の呼称が普及し,書院は建物の性格をこえて書院造建物の普通名詞になり,大小,黒白の別,あるいは居間の語を冠して,性格の別を表現するようになった。このような段階に入って,座敷飾をそなえた座敷,あるいはその座敷を含む建物の住居形式を書院造とみなす考え方が定着したといえる。明治維新以後,封建的身分秩序の枠がはずされ,家作制限が解除されて和風住宅の基本形式として書院造はしだいに広く普及した。また,江戸時代には書院造の格調の高い形式表現への反動として,その枠を破り,手法上の自由と簡素化を意図した数寄屋造が成立した。
執筆者:川上 貢
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…安土城は82年の明智光秀の反乱によって焼失したが,秀吉はその後継者としてただちにいっそう大規模な大坂城を建造した。以後秀吉は在世中に聚楽第,淀城,名護屋城,伏見城と相次いで築城を行い,それぞれの城内には贅を尽くした書院造の殿舎があった。また秀吉が母の大政所のために建てた大徳寺内の天瑞寺も,寄進者の好みを反映して,禅宗の方丈としてはそれまでにない規模と内部装飾を持つものだった。…
…(5)柱はすべて大面取(だいめんとり)の角柱となり,外回りの建具は舞良戸2枚と明障子1枚の組合せとなり,蔀戸はあまり使われなくなる。以上の変化の結果,武家の住居は書院造と呼ばれる様式を完成させるのであるが,その時期は15世紀末から16世紀後半ころであったと考えられる。書院造
[庶民の住居]
鎌倉時代の庶民住居も資料が多くなく,具体的な像を描くことはできないが,絵巻物に描かれた町屋(町家)を見ると,桁行が2~3間,梁間2間ぐらいの大きさで,屋根は板葺き,壁は網代(あじろ)を使い,板扉の入口に突上窓(つきあげまど)を備えており,平安時代の町屋とあまり変わらない。…
…ことに《太平記》の伝えるところでは,佐々木高氏(道誉)は茶,花,香を組み合わせた風流の会に中国製の美術・工芸品を並べ華美を尽くしている。 唐物を中心とする喫茶の方式は室町時代に入ると,〈書院造〉の完成によって武家儀礼の一部に定着した。すなわち,ばさら大名たちにもてはやされた唐物はますます珍重され,足利義教より足利義政にいたる室町時代中期には足利幕府によって多数の唐物名物が集められ,のちに〈東山御物〉と呼ばれるコレクションが生まれた。…
…床板の上には香炉,花瓶,燭台からなる三具足(みつぐそく)を置き,床の間の両隣には書院と違棚(ちがいだな)を設けるのが正式である。このような書院造の床の間に対して,茶室や数寄屋にも書画を飾る床の間が設けられるが,この場合は形式はかなり自由に扱われ,樹皮のついた床柱や形の変わった床柱が使われ,内部を壁で塗りまわした室床(むろどこ)や洞床(ほらどこ),落掛から床の上部だけを釣った釣床(つりどこ),入込みにならず壁面の上部に軸掛けの幕板を張っただけの織部床(おりべどこ)など,多様な形式のものがある。江戸時代は庶民の住宅では床の間を作ることを禁じられていたが,18世紀の中ごろ以降になると,多くの家で座敷に数寄屋系の床の間を設けるようになる。…
…この唐物荘厳は,室町時代の美術の性格をつくりあげる上で大きな役割を果たしている。唐物を飾るための調度である押板(おしいた)や棚,出文机(だしふづくえ)は,のちに建物の主室の意匠として固定され,それが近世の書院造の特色となる。また,唐物は模倣され国産化された。…
※「書院造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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