安田城跡(読み)やすだじようあと

日本歴史地名大系 「安田城跡」の解説

安田城跡
やすだじようあと

[現在地名]婦中町安田

呉羽山くれはやま丘陵の東麓、井田いだ川のほとりに築かれた中世の平城跡。城跡のある所を小字で殿町割とのまちわりと称し、本丸跡をオオシロ(大城)、二の丸跡をコシロ(小城)、右郭跡をカネツキドウとよんでいる。「三州志」は、天正一一年(一五八三)二月八日夜、上杉方の弓庄ゆみのしよう(現上市町)城主土肥政繁が放火した「安城外町」の安城あんじようを安田城にあてるが、裏付ける史料はない。同書によると、同一三年羽柴秀吉が佐々成政を討伐するため白鳥しらとり(現富山市)に陣を構えた際、同城にあった前田氏家臣岡島一吉が安田城に移ったという。


安田城跡
やすだじようあと

[現在地名]安田町東島 土居屋敷

安田庄の地頭であったと思われる惟宗(安田)氏の居城で、東島ひがしじま城ともいずみ城とも称した。現在本丸跡にはじよう八幡宮が建ち、山は低いが北側は谷、南には湿田が広がり、西方に安田川が流れる地形で、東の尾根を空濠で仕切っていた。天正一五年(一五八七)の安田庄地検帳の「城南村」のなかに「城詰ノタン」として四六代四歩が記され「ハタケ」とある。周辺には二ノ段・三ノ段など七筆の畑、二反三〇代の土居屋敷、一五筆の中級に格付けされた屋敷がある。


安田城跡
やすだじようあと

[現在地名]安田町保田

中世に当地を支配した安田氏の居城で、県指定史跡。町役場裏の小丘、字しろうちにあり、本丸跡と二ノ丸の一部が現存する。本丸跡は長方形で、幅七〇メートル・長さ九〇メートル。周りに幅二〇メートルの堀がめぐらされている。

安田氏は、鎌倉初期に白河しらかわ庄安田条を与えられた大見時実の子孫で、ここを本拠に南北朝期以降安田氏を称した。


安田城跡
やすだじようあと

[現在地名]柏崎市安田

鯖石さばいし左岸の高位段丘の城之組じようのくみ集落裏山にある。標高約五〇メートル。東方に鯖石川を挟んで北条きたじよう城跡・善根ぜごん城跡、西方丘陵を隔てて上条じようじよう城跡がある。本丸は長さ八五メートル、幅一七メートル。東に二ノ丸、その下は城之組の集落。本丸南は三条の空堀、北東に郭・削平地がある。館跡は不明だが城之組にオンヤシキ、オオサカの家号の家があるのでこの付近であろうか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「安田城跡」の解説

やすだじょうあと【安田城跡】


富山県富山市婦中町にある戦国末期の城跡。呉羽(くれは)丘陵の東南麓、神通(じんづう)川の支流井田川の左岸の扇状地に位置し、豊臣秀吉が越中を攻めた時、呉羽丘陵にあった白鳥城の支城として、前田利家が築いたという。1977年(昭和52)からの試掘調査により、堀、本丸、二の丸、右郭の遺構が検出され、金沢市立図書館に残る「安田城古図」に合致する遺構が残っていることが確認された。戦国時代の平城は近世以来の耕作や圃場(ほじょう)整備などによって失われたものが多く、この遺構は比較的良好に残っていることから保存をはかるため、1981年(昭和56)に国の史跡に指定された。近接する安田城跡資料館に出土品が展示されている。JR北陸本線ほか富山駅から富山地鉄バス「安田」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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