安田庄(読み)やすだのしよう

日本歴史地名大系 「安田庄」の解説

安田庄
やすだのしよう

現伯太町北部に所在した庄園。保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)に出雲八別宮の一として「安田別宮」がみえる(他の七別宮は横田・赤穴・枚浜・日蔵・新松・白上・大田)。当地に山城石清水いわしみず八幡宮の末社が勧請され、その周辺の庄園化がなされていたことがわかるが、その成立は平浜ひらはま(枚浜)別宮(現松江市)の例に準じて一一世紀末までさかのぼると推定される。その範囲は明治二二年(一八八九)成立の安田村(北と南の二つの谷からなる)に相当し、のちには現安来市吉佐きさをも含んだ。庄名は元暦二年(一一八五)正月九日の源頼朝下文(石清水文書)に出雲や諸国の石清水八幡宮寺領とともにみえ、石清水八幡宮に安堵されている。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳には、一五番に「安田庄内九十丁江戸四郎太郎」と「安田庄内三十五丁江戸四郎太郎」の二筆がみえ、面積は一二五町であった。その支配は石清水八幡宮から派遣された下司が公文など現地の庄官を率いて行っていたと推定されるが、承久の乱は当庄にも大きな影響を与えた。従来の下司に代わって武蔵国御家人江戸四郎太郎重持が幕府から地頭に補任され、現地の支配を行うようになった。江戸氏は安田北谷の入口近くの長田おさだに館を構え、安田川が伯太川に合流する低湿地地帯の開発を進めた。一方、安田別宮は北谷ないしは南谷の中央に位置したと推定され、石清水八幡宮側の支配の中心は耕地の安定した谷にあった。宝治三年(一二四九)二月日の権大僧都成真置文(石清水文書)によると石清水八幡宮に納入される年貢は、「安田 吉佐 大田 新松 日蔵 白上」を合せて米一〇〇石と銭一〇貫文であった。安田庄では嘉禄年間(一二二五―二七)に地頭江戸氏により公文清村と神人慶尊らが殺害されたが、江戸氏に対する処分が行われないまま、地頭の非法悪行が拡大していった。


安田庄
やすだのしよう

八千代やちよ町・なか町一帯に比定される庄園で、安田・曾我部そがべ中村なかむら高田たかだ野間のまの五ヵ郷で構成されていた。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月九日条によると、「播磨国武士押領所々事」のうちに梶原景時が安田庄を領家若狭局から預かったと称して押領していることがあげられ、後白河法皇がこれを糾弾している。押領地の多くは平家没官領であった。延慶本「平家物語」の源氏三草山并一谷追落事によれば、源平合戦の時に源義経をひよどり(現神戸市北区・兵庫区)まで案内した多賀菅六久利は、先祖相伝の所領安田庄下司職を平家の侍越中前司盛俊に押領されたと訴えている。建久三年(一一九二)二月、後白河法皇は寵妃高階栄子(丹後局)を安田庄預所に補任し、子孫への相伝を認めた。従来同庄加納のかわら保は年貢を国衙に納め、瓦二万枚を尊勝そんしよう(現京都市左京区)と京都蓮華王院に進納していたが、以後は年貢・雑事ともに庄家に納めるよう命じている(「後白河院庁下文」九条家文書、以下断りのないものは同文書)。同年三月、法皇は高階栄子知行の安田庄・瓦庄などに対する国役・国郡司甲乙諸人等の妨げを停止しており、瓦保が庄園化している(「後白河院庁下文案」大徳寺文書)。当庄は尊勝寺領ならびに蓮華王院領で、のちに瓦庄は安田庄に吸収されたものと考えられる。先に領家としてみえる若狭局は建春門院の乳母平政子のことで、栄子の母と考えられ、栄子は家領を伝領したのであり、ここでの預所職は領家職と同義であった。高階栄子のもつ領家職は九条家に伝えられ、正応六年(一二九三)三月一七日の九条家文庫文書目録には「安田」が掲げられている。

建武元年(一三三四)二月二三日、後醍醐天皇は九条道教に安田庄五ヵ郷地頭職を安堵したが(後醍醐天皇綸旨案)、同三年八月二四日の左大将家政所注進当知行地目録案は安田庄領家職のみを記す。


安田庄
やすだのしよう

安田川の流域、現安田町とその北に続く馬路うまじ村馬路一帯を荘域とした。「和名抄」記載の安田郷の地に立荘された荘園であるが、その時期は不詳。文永一〇年(一二七三)一〇月四日付の公文所信実書下案(「蠧簡集拾遺」所収金剛頂寺文書)に「土左国金剛頂寺領安田庄者、為大師薬師之御領、自往古不入部」とあり、鎌倉時代中期頃までには金剛頂こんごうちよう(現室戸市)の所領とされていたことが知られる。当地と金剛頂寺との関係は古く、「南路志」に記す同寺の伝えによると、大同二年(八〇七)空海が金剛頂寺を建立した際、用材搬出に関連して馬路の金林こんりん寺、別所の北べつしよのきた寺、東島の法禅ひがしじまのほうぜん寺など、安田川流域の三寺院に自ら刻んだ仏像を安置したという。


安田庄
やすだのしよう

建保二年(一二一四)東大寺領諸荘田数所当等注進状(東大寺続要録)の「大仏御仏聖白米免三十六町所々散在」のうちに「安田庄六町勤六十ケ日」とある。当庄は東大寺大仏殿の御仏聖米を年に六〇日勤仕する荘園であった。荘園の設定について、天喜二年(一〇五四)の大和国司庁宣案(東大寺文書)

<資料は省略されています>

とある。勅施入三六町とあるが、大仏殿御仏聖白米料は、もと国衙が、次いで郡郷が東大寺に納入したものである。しかし天喜以降、東大寺の要望もあって、仏聖料を納める田地がきめられ、これを白米免田という。


安田庄
やすだのしよう

多武峯とうのみね寺領荘園。護国院御神殿造営銭日記(談山神社文書)の永正一六年(一五一九)の「諸郷反銭納分四郷ハ五十文配、寄郷ハ百文配」に「二貫五百文赤尾・忍坂、安田 三ケ庄分、皆納 □一沙汰」とみえ、安田庄は多武峯寺護国ごこく院神殿の造営段銭二貫五〇〇文を、赤尾あかお庄・忍坂おつさか(現桜井市)とともに上納している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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