中国,北宋時代の書画家で,かつ鑑識の大家。湖北省襄陽の人。初名は黻(ふつ),字を元章といい,襄陽漫士,海嶽外史,火正後人,鹿門居士,淮陽(わいよう)外史,恭門居士,無礙居士,鬻熊(いくゆう)後人などと号し,また官位や奇矯な言行から世に米顚などと呼ばれた。母閻(えん)氏が英宗皇后高氏の乳母として仕えた恩蔭で,神宗の代に科挙によらず校書郎となり,徽宗朝には書画学博士,礼部員外郎となった。書は王羲之の風を伝える技巧的なもので,蔡襄,蘇軾(そしよく),黄庭堅とともに宋代四大家の一人に数えられる。画は五代・宋初の江南系の山水画家黄源,巨然の画風を学び,子の米友仁とともに雲山図をよくし,後世,米法山水と呼ばれる一様式を創始した。また,いわゆる墨戯もよくし,甘蔗(サトウキビ)のしぼりかすや蓮房を用いて枯木松石,墨竹画などを描いた。また鑑識家としても徽宗のコレクションに関与している。著書に《山村集》があったが散逸し,《書史》《画史》などが現存している。《宝晋英光集》《海嶽名言》《海嶽題跋》は後人の編集したものである。
執筆者:戸田 禎佑
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中国、北宋(ほくそう)の書家、画家。字(あざな)は元章(げんしょう)、号は鹿門居士(ろくもんこじ)、襄陽漫士(じょうようまんし)、海岳外史(かいがくがいし)など。襄陽(湖北省)の人。母が宣仁皇后に仕えたため科挙によらず官途につき、晩年書画学博士となった。石を愛し、奇石を拝し、極端に潔癖で奇行も多かったため、米顛(べいてん)、米痴(べいち)ともよばれた。画は「米法山水(べいほうさんすい)」という新しい画風を生み出した。伝統的な、細く均質精確な輪郭線から離れ、暈(ぼか)しを用い、その上に筆を横にして墨を平たく置く独創的な墨点「米点(べいてん)」を加えたものである。絵画に新局面を開いた米芾は、一方でまた辛辣(しんらつ)な絵画批評家でもあり、書画骨董(こっとう)の名品を収蔵し、徽宗(きそう)御府の書画の鑑定も行った。書は王羲之(おうぎし)を学び、蔡襄(さいじょう)、蘇軾(そしょく)、黄庭堅(こうていけん)とあわせて宋の四大家と称された。書の代表作には『草書四帖(じょう)』(大阪市立美術館)、『蜀素(しょくそ)帖』『真跡三帖』がある。著作に『宝章待訪録』『画史』『書史』『硯史』『宝晋栄光集』がある。
長男の米友仁(べいゆうじん)(1072?―1151?)も書画をよくした。字は元暉(げんき)、号は懶拙(らんせつ)道人。官は兵部侍郎、敷文閣直学士に至る。晩年は高宗の側近として書画の鑑定を行った。彼の描く樹木を、根を描かないところから「無根樹」と当時の人は評した。父の米芾を大米(たいべい)とよぶのに対し、米友仁を小米という。
[近藤秀実]
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1051~1107
北宋末の文人,書画の大家。襄陽(じょうよう)(湖北省)の人。字は元章。書は蘇軾(そしょく),黄庭堅(こうていけん),蔡襄(さいじょう)とともに宋の四大家と称され,画は米法山水をはじめ文人画に新生面を開いた。
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…山水画論には荆浩《筆法記》,郭熙《林泉高致》があり,前者は形似に対する真を取り上げ,画とは何かを問い,後者は自然に忠実な〈写真〉主義のうえに,さらに士大夫社会においてあるべき理論の山水を述べる。また蘇軾(そしよく)は文人として詩画一致を説き,米芾(べいふつ)は董源礼賛にみられるように,江南画を主張し,ともにきたるべき文人画の先駆けをなした。 元・明・清は,夏文彦《図絵宝鑑》,姜(きよう)紹書《無声詩史》,張庚《国朝画徴録》が編年体で画史を記す。…
… ただ,北宋時代は唐代と同様,華北山水画が主流をなした時代であり,李成に学んだ范寛,郭熙らが出て三遠法を駆使した精緻な空間表現を達成し,江南山水画を圧倒した。江南山水画が再評価されるようになるのは北宋も後期以後,紙や墨などの素材のもつ滲みなどの効果に鋭い感受性を示した米芾(べいふつ)・米友仁父子によってであるが,華北山水画と江南山水画のこういった再対立・再総合の機運は十分熟さないまま,南宋と金とが中国を二分して形づくられる,山水画における南北の複雑な対立状況が出現する。北宋絵画の正統を受け継ぐと自負する金には王庭筠らの文人画家,南宋には四大家と称される李唐,劉松年,馬遠,夏珪ら,北宋画院の伝統を継承する画院画家が現れ,それぞれの絵画史の基調を作りあげた。…
…この思想は,その弟子の蘇軾(そしよく)(東坡),またその弟子の黄庭堅らにも受け継がれ,宋代士大夫の書論を大きく方向づけることになった。宋代の新しい書風を実作の面で打ち出したのは蔡襄(さいじよう),蘇軾,黄庭堅,米芾(べいふつ)のいわゆる宋の四大家である。彼らは,自己の人間性を天真のままに表現し,〈宋人は意を尚(たつと)ぶ〉と評されるような,自由闊達で,意志的な強さに特色のある書風を作り上げた。…
…例えば蘇軾(東坡)に《東坡題跋》,黄庭堅に《山谷題跋》があり,彼らは顔真卿の書を基礎として自己の書風を確立するとともに,新しい観点から顔書を書史の上に大きく位置づけることに成功した。米芾(べいふつ)も古法書を深く究明して,晋人の平淡天真に書の理想を求め,それをみずから血肉化することによって,因襲的な伝統派をのり越えることができた。元代の書壇では趙孟頫(ちようもうふ)らが活躍して一般に保守的な傾向が強く,古典を学習するための参考書が多く書かれたが,宋代の清新な書論は影をひそめた。…
…北宋後半,文同,蘇軾(そしよく)を中心とするグループの墨竹より興った文人の墨戯は書と画の中間項のような新しいジャンルで,この墨戯の成立という現象は絵画における中国の特異性を示している。江南の董・巨様式は北宋末に米芾(べいふつ)によって再興されるが,李公麟の人物画と同様に,米芾も材料として紙と墨を採用した。この選択と彼の作画態度には文人墨戯の影響が色濃い。…
… 南宗画という命名の由来は,当時流行の禅宗趣味(董其昌はかなり禅学に没頭している)から,五祖弘忍(ぐにん)の後が,神秀(じんしゆう)の北宗禅の漸修と,慧能(えのう)の南宗禅の頓悟とに分かれ,慧能が六祖を継いでから簡略を旨とする南宗禅が栄えたことになぞらえて,画にも北宗,南宗の別があるとし,その起源も禅宗と同じく唐にまでさかのぼり,北宗は細密な輪郭線によって着色山水を描く李思訓に始まり,南宗は渲淡によって李思訓らの鉤斫(こうしやく)(輪郭でくくる)の法を一変した王維に始まり,画でも禅の頓悟に比せられる南宗画が栄えたという。莫是竜によれば,北宗は李思訓,李昭道,趙幹,趙伯駒,趙伯驌,馬遠,夏珪とつながり,南宗は王維,張璪,荆浩,関仝,郭忠恕,董源,巨然,米芾(べいふつ),米友仁,元末四大家(黄公望,呉鎮,倪瓚(げいさん),王蒙)と続くとするが,董其昌,陳継儒のいう系譜とはやや異なる。この南北の系譜については,伝統的な線描を骨格とする職業画家李思訓と,破墨山水を描いて初期水墨画家の一人に数えられ詩人を本職とする王維とをそれぞれ北宗,南宗の祖とするのは理解できるが,二人につづく南北画人の系譜は歴史的事実と整合させがたく,董其昌らの無理な作為が目だつ。…
※「米芾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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