室町後期の俳人、書家。確実な伝記資料が伝わらないのではっきりしないが、『滑稽(こっけい)太平記』などによると近江(おうみ)の産で、支那弥三郎範重(しなやさぶろうのりしげ)と名のる武士であった。25歳のとき、将軍足利義尚(あしかがよしひさ)に従い近江守護佐々木高頼を攻めたが、義尚が陣中で没したため剃髪(ていはつ)し、摂津の尼崎(あまがさき)に隠遁(いんとん)したという。一休を敬慕すること厚く、しばらく一休ゆかりの山城(やましろ)(京都府)薪(たきぎ)の酬恩庵(しゅうおんあん)に滞留していたらしく、そこで連歌師宗長(そうちょう)と俳諧(はいかい)(前句付(まえくづけ))に腕を競ったことはよく知られている(『宗長手記』)。俗に山崎宗鑑とよばれるように、晩年は山崎に庵(いおり)を結び、地元の人々の連歌を指導したり、古典や俳諧作品などを書写して頒(わか)ち、口を糊(のり)した。その癖のある筆法は宗鑑流とよばれ、追随者を出している。油筒(ゆとう)を売っていたとか、「上(じょう)の客立ち帰り、中(ちゅう)の客其(そ)の日帰り、下々(げげ)の客泊りがけ」と書いた額を庵に掛けていたとか、彼の風狂ぶりを伝える逸話には事欠かない。そうした飄逸(ひょういつ)の境涯は、「風寒し破れ障子の神無月(かみなづき)」(「紙無」に掛ける)の自画賛に凝縮されている。若いころから連歌をたしなみ、宗祇(そうぎ)とも一座した宗鑑筆の連歌懐紙(かいし)が伝わり、かなりの手練であったと判断されるが、洒脱磊落(しゃだつらいらく)なひととなりから俳諧に本領を発揮した。生前に編んだ『誹諧連歌抄』は『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』の名で流布し、守武(もりたけ)ともども俳諧始祖の称を与えられることになった。
[加藤定彦]
うづきゝてねぶとに鳴くや郭公(ほととぎす)
『吉川一郎著『山崎宗鑑伝』(1955・養徳社)』▽『木村三四吾著「山崎宗鑑」(『俳句講座2 俳人評伝 上』所収・1958・明治書院)』
室町後期の俳人,連歌師。生没年を含め伝記の詳細は不明で,本名は支那範重あるいは範永(範長)。近江源氏佐々木氏の出で,将軍足利義尚(義輝とも)に出仕,のち出家して尼崎,山城国薪の地を経て同国の洛西山崎に対月庵(妙喜庵)を結んだと伝え,山崎宗鑑とよばれる。若年のころに宗祇,肖柏らと一座した連歌作品も残るが,名を高めたのは俳諧における活躍で,《守武(もりたけ)千句》跋文や《宗長手記》はその姿をよく伝えている。宗鑑作の明らかである句を含む《誹諧連歌抄》(《犬筑波集》ともいう)には宗鑑の自筆写本も伝存し,そのため編者と信じられて俳諧の始祖とされた。宗鑑自撰説には現在では疑う余地もあるが,近世を通じて,その放埒大胆で巧みな作風が,俳諧ことに談林の俳風に及ぼした影響は大きい。書も独特で宗鑑流と称される。〈おひつかむおひつかむとやはしるらん 高野ひじりのあとのやりもち〉(《宗長手記》)。
執筆者:光田 和伸
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?~1539?
戦国期の連歌・俳諧作者。本名・出自などは諸説ある。もと足利家家臣。主君の死で出家し,摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲,のち淀川河畔の山崎に庵を結び山崎宗鑑とよばれた。宗長(そうちょう)や荒木田守武(もりたけ)との交流が知られる。連歌作品の伝存はわずかだが,最初期の俳諧撰集「犬筑波集」を編集し,その卑俗奔放な句風は,江戸初期の談林俳諧に影響を与えた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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