宝幢院跡(読み)ほうどういんあと

日本歴史地名大系 「宝幢院跡」の解説

宝幢院跡
ほうどういんあと

[現在地名]大津市坂本本町

釈迦しやか堂の背後(北東)にある十六院の一つ。正しくは法華延命宝幢ほつけえんめいほうどう院。当院の一施設に相輪そうりんがあり、西塔全体を宝幢院ともよぶのはこの宝によるという。相輪は当院より古い創建で、現存する。

近江若狭・越前寺院神社大事典〉

〔相輪〕

正しくは浄菩提心無垢浄光摩尼幢相輪。平安末か鎌倉初期の写本という叡山宝幢院図并文(仁和寺蔵)などによれば、弘仁一一年(八二〇)九月最澄が自ら書写した法華経や大日経をはじめとする二二部五八巻の経典銘文を納めるため創建された。の形態・規模については「宝幢壱基、高四丈五尺」などと記され、名称の由来となった相輪自体は高さ三尺三寸で九層に分れ、各層の形は盤のごとくであり、層ごとには摺本の無垢浄光などの真言を納めた一一の金銅小筒が付けられ、最下層には一一の宝鐸が懸けられていたという。


宝幢院跡
ほうどういんあと

[現在地名]高野町高野山

恵光えこう院前の南北の谷、宝幢院谷の南端にあったと伝え、焼失(時期不詳)後は阿弥陀堂のみ再建されたが(続風土記)、現在は阿弥陀堂も廃絶。鎌倉時代の信堅院号帳に「宝憧院 宝塔三昧院後白川院御願也、願主丹後二位殿」とみえ、文明五年(一四七三)の諸院家帳は宝塔三昧ほうとうさんまい院を説明して「道南、法花房上人鑁阿建立、以後二位為願主号宝幢院」と記す。


宝幢院跡
ほうどういんあと

[現在地名]河芸町北黒田

北黒田きたくろだ集落背後の丘陵上にあった寺院で、「五鈴遺響」には「法幢寺 同処ニアリ、神宮寺と称ス、領主藤堂家ノ祈願所ニシテ、毎歳正月十五日、国家鎮護ノ大般若経転読執行セリ」と記す。弥尼布理みねふり神社の別当寺であったと思われるが、明治年間に廃絶し、その跡は小学校敷地となっている。しかしその大般若経転読は、北黒田地区の「世だめし粥占行事」となって現在まで継続されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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