新撰 芸能人物事典 明治~平成 「宮下秀冽」の解説
宮下 秀冽(初代)
ミヤシタ シュウレツ
- 職業
- 作曲家 箏曲家
- 本名
- 宮下 哲郎(ミヤシタ テツロウ)
- 生年月日
- 明治42年 12月15日
- 出生地
- 群馬県 群馬郡倉渕村(高崎市)
- 学歴
- 東京盲学校師範部研究科(後・東京教育大学雑司ヶ谷分校)〔昭和11年〕卒
- 経歴
- 群馬県倉渕村の素封家の家に生まれる。幼少時から目の病気にかかり、高崎中学を卒業後に失明。音楽家を志して東京盲学校音楽科に入り、初代萩岡松韻に山田流の箏曲を、久本玄智、宮城道雄に新音楽を学ぶ。また田辺尚雄に音楽理論の指導を受け、卒業論文となった「箏組曲の研究」は雑誌「三曲」に掲載されるなど高い評価を受けた。同校卒業後は箏の演奏や指導に携わる傍ら作曲を続け、昭和12年頃から作品発表会を開催。作曲をする際には常に田辺の家を訪れて徹夜で議論を行っており、その影響によって東洋の思想や楽器にも眼を開いた。その作風は、日本風の音階や情緒を持ちながら洋楽的なオーケストラにも関心を寄せ、曲に応じては雅楽器や洋楽器、日本以外の東洋的な楽器も使用した。23年「双調の曲」で三曲新作コンクールの第1位に入賞。さらに28年にはTBSの委嘱で作曲した「箏主奏組曲〈平家物語による幻想〉」が芸術祭奨励賞に選ばれ、異色の邦楽系作曲家として注目を集める存在となった。特に同祭においてはNHKや自身の門下たちにしてすぐれた演奏団体である秀冽舎の協力によって大規模な作品を用意し、36年の「日本楽器のための組曲」及び47年の「竹林精舎」で大賞を2度受賞したほか、同祭関係の賞を数多く受けており“芸術祭男”の異名をとった。一方、大正4年頃から十三絃箏の音域を広げた三十絃箏の開発に取り組んでおり、戦前期は低音部の絃が細くて切れやすかったが、戦後には化学繊維の発達に伴って細くて丈夫な絃の製作が可能となり、昭和30年頃に完成。以後、三十絃箏の豊かな音量によって独自の幻想的な音の世界を表現し、これを使用した「三十絃のための独奏曲」「三十絃・尺八・箏のための三重奏曲〈寂〉」などを作曲した。他の作品に「花」「生々流転」「神秘」「蒼空の響き」「牧歌と祭り」などがあり、ステージ演奏用の作品も多い。息子の伸、娘のたづ子はともに三十絃箏の演奏家として名を成し、没後、たづ子が2代目秀冽を襲名した。
- 所属団体
- 東洋音楽学会 日本三曲協会,秀冽社紫線会(会長)
- 受賞
- 紫綬褒章〔昭和50年〕,勲四等瑞宝章〔昭和57年〕 芸術祭賞奨励賞(第8回・21回)〔昭和28年・昭和41年〕「箏主奏組曲〈平家物語による幻想〉」「宮下秀冽作品演奏会の成果」,芸術祭賞大賞(第16回・第27回)〔昭和36年・昭和47年〕「日本楽器のための組曲」「竹林精舎」,芸術祭賞優秀賞(第34回・37回)〔昭和54年・昭和57年〕「蒼空の響」「風花無限」 邦楽コンクール作曲部門第1位文部大臣賞〔昭和23年〕
- 没年月日
- 平成5年 12月24日 (1993年)
- 家族
- 息子=宮下 伸(箏曲家),娘=宮下 秀冽(2代目)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報