改訂新版 世界大百科事典 「宮中某重大事件」の意味・わかりやすい解説
宮中某重大事件 (きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)
1920年から21年にかけておこった皇太子迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(昭和天皇)の妃決定をめぐる紛糾事件。1918年春,島津忠義の孫で久邇宮(くにのみや)邦彦王の長女良子(ながこ)が皇太子妃に内定し,翌年6月に正式の婚約が成立した。しかし元老山県有朋は,良子の母系の島津家に色盲遺伝があるとして,この婚約に反対を唱えた。山県は首相原敬と相談して,専門医師の調査書をもとに元老西園寺公望らとも協議の末,久邇宮家にやんわりと辞退を迫った。しかし久邇宮側は山県に〈色弱〉を盾に反駁文を送り,その写しを皇后に提出した。こうしたなかで,山県直系の中村雄次郎宮相は調査を進め,島津家の女系に色盲因子保存者のいることをつきとめた。けれども久邇宮側は,杉浦重剛,古島一雄,頭山満等の支持をえて反撃し,山県と原内閣に対する反対運動を展開して,〈宮中某重大事件〉として騒がれた。この事件は,島津家が山本権兵衛,床次竹二郎の薩摩派を動かし,山県も譲らず,薩長間の派閥対立の構図に,皇族の思惑が重なり,さらに天皇信仰派と科学的な近代派の対立という複雑な様相を呈したのである。政府は,右翼による山県・原暗殺の動きもあり,治安に自信を失い,21年2月10日,宮内省は皇太子妃は内定に変更なしと発表し,この事件に結末をつけた。
執筆者:金原 左門
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報