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藤原俊成女 ふじわらのとしなりのむすめ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原俊成女
ふじわらのとしなりのむすめ

[生]承安1(1171)?
[没]建長4(1252)以後
鎌倉時代前期の女流歌人。越部 (こしべの) 禅尼ともいう。父は正四位下右中将盛頼。母は皇太后宮大夫俊成の娘八条院三条。俊成の孫娘で,その養女という意味で俊成女と呼ばれる。源通具と結婚し,侍従具定らを生んだが,のち離婚。その歌才を認めた後鳥羽院に女房として出仕し,『千五百番歌合』『仙洞句題五十首』など,多くの歌合,歌会に参加。宮内卿とともに『新古今和歌集』女流歌人の双璧をなした。家集『俊成卿女集』。歌風は巧緻で物語的傾向が著しく,特に恋の歌にすぐれている。『新古今集』に 29首入集。歌論越部禅尼消息』がある。

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デジタル大辞泉の解説

ふじわらのしゅんぜい‐の‐むすめ〔ふぢはらのシユンゼイ‐〕【藤原俊成女】

[1171ころ~1252ころ]鎌倉前期の歌人。父は藤原盛頼、母は藤原俊成の娘。俊成の孫で養女となる。源通具の妻。新古今集の代表的女流歌人。家集に「俊成卿女集」がある。嵯峨禅尼。

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百科事典マイペディアの解説

藤原俊成女【ふじわらのとしなりのむすめ】

鎌倉前期の歌人。正しくは藤原俊成の女(むすめ)の子であり,孫だが,俊成が養女とした。後鳥羽院に仕え,夫源通具(みちとも)の死後出家,越部(こしべ)禅尼と称す。優艶繊細な歌風で新古今時代の代表的歌人の一人。
→関連項目たまきはる無名草子

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原俊成女 ふじわらの-としなりの-むすめ

?-? 鎌倉時代の歌人。
藤原盛頼(もりより)の娘。母は藤原俊成の娘八条院三条。祖父俊成の養女。源通具(みちとも)の妻となり,具定を生んだ。後鳥羽(ごとば)院の歌壇で活躍し,勅撰集には「新古今和歌集」以下に116首がはいる。出家し,のち播磨(はりま)(兵庫県)越部(こしべの)荘にすみ,建長4年(1252)以降に八十余歳で死去。家集に「俊成卿女集」,歌論書に「越部禅尼消息」。
【格言など】をりふしもうつればかへつ世の中の人の心の花染のそで(「新古今和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原俊成女

生年:生没年不詳
鎌倉時代の歌人。父は藤原盛頼,母は藤原俊成の娘である八条院三条。俊成の養子となる。20歳ごろ『新古今和歌集』の選者源通具の妻となるが,その後離婚。次いで建仁2(1202)年に後鳥羽院に出仕し,院歌壇の女性歌人の中心的存在として活躍した。『千五百番歌合』(1202年ごろ)など,鎌倉時代前期の主要な歌合,歌会に参加している。本歌取や物語取の技法を駆使した,巧緻で妖艶な作品が多い。家集に『俊成卿女集』があり,歌論書に『越部禅尼消息』が存する。物語評論『無名草子』の作者に擬す説もある。<参考文献>森本元子『俊成卿女集の研究』

(渡部泰明)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのとしなりのむすめ【藤原俊成女】

1171?‐1254(承安1?‐建長6)
鎌倉前期の女流歌人。俊成(しゆんぜい)卿女ともよばれる。尾張守藤原盛頼女で,母は俊成女の八条院三条。正しくは俊成の孫であるが,養女として育てられる。源通具に嫁したが,のち後鳥羽院に出仕して別居。〈風通ふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢〉(《新古今集》)など,艶麗な詠風に特色を示し,宮内卿らと並び称された。家集《俊成卿女集》,歌論《越部禅尼消息》など。勅撰集入集117首。【上条 彰次】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原俊成女
ふじわらのしゅんぜいのむすめ
(1171ころ―1252ころ)

鎌倉前期の歌人。俊成の外孫で養女となる。父は右少将尾張守(おわりのかみ)藤原盛頼(もりより)、母は俊成の女の八条院三条。三条の母は親忠(ちかただ)の女の美福門院加賀(びふくもんいんかが)で、三条は定家(ていか)とは同腹の姉にあたる。俊成女は1190年(建久1)20歳ぐらいで因幡守(いなばのかみ)源通具(みちとも)の妻となり一女一男具定(ともさだ)を産んだが、通具は一門の栄達のために権門の女性按察(あぜち)と結婚したので、家庭的にはかならずしも幸福ではなかった。このあたりを人生の転機として1202年(建仁2)後鳥羽(ごとば)院に出仕し、仙洞(せんとう)歌壇で活躍して女流歌人の第一人者となる。13年(建保1)43歳ごろに出家し、初め嵯峨(さが)に住み嵯峨禅尼、中院尼(なかのいんのあま)といわれたが、のちに播磨(はりま)国越部庄(こしべのしょう)に移り住み越部禅尼とよばれる。51年(建長3)の『続後撰(しょくごせん)集』成立後、甥(おい)の撰者藤原為家(ためいえ)に送った『越部禅尼消息』には晩年の見解や心情がみられる。歌は『新古今和歌集』に初出。家集には『俊成卿女集』がある。『無名草子(むみょうぞうし)』の作者に擬せられる。「千五百番歌合(うたあわせ)」をはじめ当時のおもな歌合に参加し、また百首歌を出詠する。「下もえに思ひ消えなん煙だに跡なき雲のはてぞかなしき」。「下もえの少将」の異名はこの歌に基づくという。[糸賀きみ江]
『森本元子著『俊成卿女の研究』(1976・桜楓社)』

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世界大百科事典内の藤原俊成女の言及

【藤原俊成女】より

…鎌倉前期の女流歌人。俊成(しゆんぜい)卿女ともよばれる。尾張守藤原盛頼女で,母は俊成女の八条院三条。正しくは俊成の孫であるが,養女として育てられる。源通具に嫁したが,のち後鳥羽院に出仕して別居。〈風通ふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢〉(《新古今集》)など,艶麗な詠風に特色を示し,宮内卿らと並び称された。家集《俊成卿女集》,歌論《越部禅尼消息》など。勅撰集入集117首。【上条 彰次】…

【無名草子】より

…鎌倉時代の物語評論。著者は新古今歌人の藤原俊成女と推定される。内容は,《源氏物語》を中心に《狭衣(さごろも)物語》《夜半の寝覚(ねざめ)》《浜松中納言物語》その他散逸物語に及ぶ20編の物語についての論評,《万葉集》《古今集》以下《千載集》に至る勅撰集を取り上げた歌集評,および小野小町,清少納言,和泉式部など平安時代の代表的女流歌人に対する人物評からなり,それらを女房たちの会話の形で述べる。…

※「藤原俊成女」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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