日本歴史地名大系 「宮垣村」の解説 宮垣村みやがきむら 兵庫県:養父郡大屋町宮垣村[現在地名]大屋町宮垣樽見(たるみ)村の北東、大屋川の流域にあり、南は上山(うやま)村、東は新津(しんづ)村(現養父町)、北は琴引(ことびき)(琴弾)峠を越えて上八木(かみやぎ)村(現八鹿町)。地元では「みやがい」とも発音する。中世には三方(みかた)郷内で、永禄三年(一五六〇)一一月二一日付で三方大蔵丞正秀が定めた三方郷東西堺注文(三方文書)に「宮垣村」と所見し、当村と新津村との境は「東ハ平度、北ハいとつ谷」、当村と樽見村との境は「東ハ上山のはな、北ハ同指向小尾」と記される。ともに大屋川の流域にある新津村の西、樽見村の東に両村と境を接して当村が位置していたことが判明する。なお当地の大屋川右岸の尾根の突端に日下部一族で国人として活躍した三方氏の居城とされる城跡(三方城)がある。また前掲三方郷東西堺注文を定めた三方正秀は、天正八年(一五八〇)羽柴秀吉に降伏、秀吉の因幡鳥取攻めに活躍したものの朋輩の遺恨をかって殺され、首級は養子の掃部正澄が持帰り、当村大門(だいもん)の傍らに埋めたといわれ、宝暦一〇年(一七六〇)その地に「三方大蔵丞正秀之塔」と刻んだ石塔が建立された(三方家由緒書)。 宮垣村みやがきむら 京都府:福知山市宮垣村[現在地名]福知山市字宮垣・鴨野(かもの)町牧(まき)川の支流宮垣川の谷を占める。土地では「みやがい」といいならわす。江戸時代の当村については、「丹波志」に、「本村 岩戸 池ノ内 高三百四十石 民家九十戸、西ニ今西中村エ越峠有、壱里」とある。福知山藩領。寺社方覚帳(威光寺文書)は、「田和村支宮垣村」とする。氏神は一宮(いちのみや)大明神(現一宮神社)、「丹波志」に「一宮大明神 古川口郷 金谷郷宮垣村ニ建(中略)下田二畝歩 村除」とある。「天田郡志資料」は、祭神を大己貴命とする。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by