改訂新版 世界大百科事典 「宮負定雄」の意味・わかりやすい解説
宮負定雄 (みやおいやすお)
生没年:1797-1858(寛政9-安政5)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
幕末の国学者。通称佐平。下総(しもうさ)国香取(かとり)郡松沢村(千葉県旭(あさひ)市)に、佐五兵衛定賢(さだまさ)の子として生まれる。父定賢は名主を勤め、国学にも興味をもち、1819年(文政2)下総に来遊した平田篤胤(あつたね)に入門した。父の教えを受けた定雄は自身の農耕体験をもとに『農業要集』を著し、26年に平田篤胤に入門し、多くの門人を紹介するなど、平田派下総国学の中心となって活躍した。父についで名主を勤めたが早く辞め、『草木撰種録』『民家要術』『国益本論』など多くの著述をしながら、荒廃する東総農村の復興に心を砕き、晩年には幽冥(ゆうめい)界に興味をもつようになる。
[川名 登]
『『日本農書全集3 農業要集・他』(1979・農山漁村文化協会)』
(白石良夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…水運はまた目に見えない文化をも運んだ。利根川流域への江戸人士の来遊,松尾芭蕉,小林一茶,高田与清,渡辺崋山,平田篤胤らの来遊は流域文化圏の形成を刺激し,その中から赤松宗旦,伊能忠敬,下総国学の宮負定雄(みやおいやすお)などの学者が生まれた。水運は明治期に入っても運河建設等があって盛んであったが,明治政府の河川治水政策の転換によって水運路に大きな打撃を受け,鉄道の発達によってさらに衰え,トラック輸送の発達によって完全に衰退した。…
※「宮負定雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新