松沢村(読み)まつざわむら

日本歴史地名大系 「松沢村」の解説

松沢村
まつざわむら

[現在地名]神林村松沢

東の松沢山間から流れる松沢川流域の山麓にあり、北は岩野沢いわのさわ村・山田やまだ村、西は宿田やずた村に接する。文永七年(一二七〇)八月二五日の色部行忍(公長)譲状案写(「古案記録草案」所収文書)小泉こいずみ庄内として「松沢新田」がみえ、同所を除く牛屋うしや条内作路つくりみち以東が平氏長へ譲られている。文保元年(一三一七)一〇月二八日の尼誓仏譲状(桜井市作氏所蔵文書)には「まつさハたうてん、ならひにしんてん一丁六たんの中、はんふん、しものふんのたやしき」が祖母誓仏から孫の色部長倫へ譲られている。また正中二年(一三二五)閏正月一八日、誓仏が祖父行忍から譲り受けた、小泉庄内牛屋条・色部いろべ条のうち「いの・まつさわ・寺田ならひに新田うち」合せて田二反が、孫いろへの次郎三郎ともなかに譲られたとする誓仏譲状(米沢市立図書館所蔵色部氏文書)も残る。


松沢村
まつさわむら

[現在地名]川俣町鶴沢つるさわ

鶴田つるた村の西、阿武隈川支流女神めがみ川の上流域に位置し、西は羽田はねだ村。起伏の小さい低平な丘陵の山麓低地にあたる。中央を二本松に至る街道が東西に走り、川俣と飯野いいの(現飯野町)・二本松に通じる。村名は「信達一統志」によると、多くの松が茂り、沢の熟地を開発して一邑をなしたことに由来するという。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高四八九石余。近世初期の邑鑑によると免五ツ、家数三五(役家一八、肝煎・小走二、寺・山伏・脇家一五)、人数一一二、役木として桑・柿のほか楮少しがある。


松沢村
まつざわむら

[現在地名]白沢村松沢

稲沢いなざわ村の南に位置し、南は七草木ななくさぎ(現三春町)丹伊田にいた(現郡山市)。「相生集」に「名義松の多なりし地か松の生沢なりしか」とある。西の白岩しらいわ村との境にあるだけ(四一三・四メートル)をはじめ、平均三〇〇メートルを超える丘陵地に位置し、養蚕のほか稲作・葉煙草栽培を行う。天正一四年(一五八六)八月二九日の伊達政宗充行状(伊達家文書)に「松沢之村之内、一たけの内三〆」とみえ、大内右馬允に安堵されている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に松沢とみえ、高六六五石余。元禄二年(一六八九)の人数改帳(白沢村史)によると、本田高六六五石余・新田高四七石余、人数男一八九・女一四九、馬六五。


松沢村
まつざわむら

[現在地名]東根市松沢

みだれ川扇状地の扇端部、西流する白水しろみず川の下流左岸に位置し、東は宮崎みやざき村、南は島大堀しまおおほり村・蟹沢かにさわ村。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(山形大学附属図書館蔵)には「白水川村之南ヲ流、川上御支配所沢渡山奥より流来り川下最上川落、但幅八間」とあり、流路が村の南から北へ変わっている。元禄四年(一六九一)の村明細帳(同館蔵)によると、「松沢新田立候事ハ、鳥居左京様御代六拾八年以前亥年相立候」とあり、元和九年(一六二三)の鳥居検地で松沢新田として村立てし、寛文一三年(一六七三)の検地で松沢村となった。


松沢村
まつざわむら

[現在地名]東条町松沢

厚利あつとし村の西、東条川中流右岸に位置する。西は池田いけだ(現小野市)慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方二七七石余・畠方二二石余、幕府領。宝永五年(一七〇八)以後の領主の変遷は新定しんじよ村と同じ。天保郷帳では高三四九石余。嘉永年間(一八四八―五四)の家数四二・人数一八四、牛一七、大工五・左官一・屋根屋一・桶屋一・鍬柄屋一・荒物商一・醤油兼酒小売一・呉服屋一・菓子類商三、租率五一・九パーセント(「村明細帳」松沢区有文書)。延宝七年(一六七九)荷籠にこも山入会権について当村など二五ヵ村と藤田ふじた(現社町)など三六ヵ村が争ったが、享保元年(一七一六)に和解した(「三草山争論裁許申渡覚」藤田区有文書)


松沢村
まつざわむら

[現在地名]南陽市松沢

大谷地おおやちの東北部、平次林へいじばやし(五四〇メートル)山麓にあり、松沢観音参道右側に元弘三年(一三三三)の阿弥陀三尊板碑(県指定文化財)が建つ。平次林山中腹南斜面には置賜おきたま地方では珍しい竪穴式古墳もみられる。近世初期に北条ほうじよう郷代官安部右馬之助が開拓した村で、安部右馬之助覚書(安部文書)に「寛永十五年御検地之節始而宮崎村と新期取立申候。金沢村、松沢村右同断取立申候」とあり、宮原みやばら地区に安部屋敷あべやしきとよばれる地名がある。右馬之助は正保三年(一六四六)八月二二日死去し、北隣の金沢かねざわ村に墓があり「暮山旱月居士」とある。


松沢村
まつざわむら

[現在地名]会津高田町松沢

赤沢あかさわ川上流の山麓にあり、南は荻窪おぎくぼ村。南一町三〇間に小名南松沢があり、本村を北松沢とも称した。村名は松沢しようたく寺によるといわれる。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、永井野組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高八九石余。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では北松沢村・南松沢村とあり、高二五三石余。化政期の家数は本村一七・南松沢一四(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数三三(寺一)・人数二一八(人員録)。西の山腹熊野神社がある。曹洞宗松沢寺は永享年中(一四二九―四一)創建で、松本図書が寺領一〇〇貫文を寄付したという(新編会津風土記)


松沢村
まつざわむら

[現在地名]干潟町清和乙せいわおつ

諸徳寺しよとくじ村の北西の台地上に位置する。ほぼ南北に通る道筋に沿って集落が開け、東方に熊野神社がある。中世は松沢庄に含まれた。天正一九年(一五九一)の香取郡松沢之郷御縄打水帳(越川家文書)があるが、四冊のうち三冊を伝える。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二四九石余、旗本山角領と熊野権現社領。旧高旧領取調帳では山角領二四六石余と熊野神社領二石余。寛文六年(一六六六)、享保一七年(一七三二)諸徳寺村などと入会争論となっている(海上町史)。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では家数三二。


松沢村
まつざわむら

[現在地名]朝日村松沢

下田沢しもたざわ村の北西、大鳥おおとり川支流、松沢川の左岸に位置する。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高二〇石余。正保郷帳では田高一八石余・畑高二石余。弍郡詳記では高二二石余、免六ツ八分五厘、家数三二。慶応三年(一八七六)検地帳(南支所文書)によると反別は一町九反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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