日本大百科全書(ニッポニカ) 「尊王思想」の意味・わかりやすい解説
尊王思想
そんのうしそう
一般的には君主(王)を尊崇する思想。とくに近世後期から幕末期において徳川幕府による国家支配の体系を批判し、新しい国家権力の頂点に天皇を据えさせるに力あった国家主義的な政治思想をいう。中国朱子学において主張される尊王斥覇(せきは)の王道論流の尊王思想には、血縁の切断による君主権の交替を正当づける易姓(えきせい)革命説がそれと不可分のものとしてあるが、日本の尊王思想は政治上の実権を失ってもなお存続する天皇を尊崇の対象とするもので、両者の間には本質的な相違がある。
近世前期では山崎闇斎(あんさい)、山鹿素行(やまがそこう)らの尊王論が目だち、ともに君主に対する臣下の忠の道徳を絶対的に強調している。とくに素行は、天皇に対する武家権力の勤王の思想が将軍権力の位階的支配にとって必要であるとしており、この期の尊王論が徳川封建体制強化のための国家イデオロギーであったことを示している。中期における尊王論の代表者は本居宣長(もとおりのりなが)である。宣長は「からごころ」排斥の立場から『日本書紀』中の天壌無窮の神勅が「道の根元大本(こんげんたいほん)」であるとし、現実の徳川家による国家支配の体制も、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神勅に発し朝廷を経て東照神君(とうしょうしんくん)(徳川家康)に統治が委任されたものとする。この意味で、これも幕府批判を含むものではなかった。また対外的には、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略に対して、最初から明(みん)を征服すべきであったとするなど侵略主義的な言説を含むものであった。
後期から幕末期までの尊王論は、幕藩体制の内部的動揺が列強の日本接近と結び付いて深まったことにより、幕府に対する批判の意味を有するようになる。宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)事件はその最初の表れと考えてよいが、鎖国体制の動揺が本格化するにつれ、尊王論や神国思想のなかにもともとあった排外主義的発想が尊王攘夷(じょうい)論として展開するに至り、幕府批判のよりどころにさえなってくる。水戸学の祖藤田幽谷(ゆうこく)の名分論は、天皇が政治上の権力(実)から離れても形式上の君主としての「名」をもち続けるところに日本国家の統治上の特質があると説くもので、そのことによって天皇の政治上の役割がいっそう明確化され、以後の権力論に大きな影響を与えた。また会沢正志斎(あいざわせいしさい)は『新論』で、危機に際して民心を国家目的に統合させるためのものとして尊王と攘夷を位置づけ、祭主としての天皇が神道祭祀(しんとうさいし)をつかさどり、対外強硬路線を貫くことで国民精神を動員できるとした。また吉田松陰(しょういん)は、君主に対する絶対的な忠誠の心を、臣下や国民の内発的な道徳心から発露されるべきものとし、国民的規模での国家の統一性をつくりあげることで民族の危機を克服しようとした。こうして幕末期の尊王論は、幕府封建体制にかわって新たな天皇中心の国家体制を創出する政治思想としての役割を果たした。歴史上、尊王論といえばこの時期までの政治思想をさすが、思想的には、たとえば会沢の『新論』に代表されるものは、昭和10年代に国民精神を動員して侵略戦争を遂行せんとする際の天皇制ファシズムのイデオロギーに類似するし、また現在の象徴天皇制の下で“日本人のアイデンティティ”を天皇の存在そのものに求めるような国家主義的思想も、尊王思想の一変種といえよう。
[奈倉哲三]
『尾藤正英著『尊王攘夷思想』(『岩波講座 日本歴史13 近世5』所収・1977・岩波書店)』