第2次大戦前における半官半民の外国為替専門銀行で,その規模は日本最大,国際的にみても有数のものであった。本店は終始横浜にあったが,1920年8月の内規改正で統轄事務を取り扱う頭取席が正式に設けられたころから,事実上の本店機能は東京に移された。1879年11月,豊橋藩士出身の中村道太ほか22人の発起人の出願により,福沢諭吉や大蔵卿大隈重信の援助を得て,80年2月国立銀行条例に準拠して資本金300万円で設立された。目的は当初の金銀貨幣の供給から外国為替の取扱いへとしだいに変化したが,外国銀行に対抗しつつ日本の貿易の発達を図る点では一貫していた。設立当初,資本金の1/3が政府により出資されたばかりか預金のうち300万円が国庫準備金から預入れされ,さらに政府から〈御用外国為替〉業務を委託される等,政府の手厚い保護を受けていた。97年に外国貿易関係業務を専門的に担当する特殊銀行としての性格を明確にするため,横浜正金銀行条例が制定公布され,以後これが同行の根拠法規となった。99年に御用外国為替制度が廃止され,同行は為替リスクをみずから負担する本来の外国為替銀行となった。一時的な経営危機も政府の保護で乗り切り,以後同行は,1897年の日清戦争賠償金を基礎とした日本の金本位制の確立,1907年の日露戦争戦費調達のための外債(8200万ポンド)発行の成功に助けられて国際的地位を高め,明治末期には世界各地に20の海外店舗を有する有数の外国為替銀行に成長した。この間,1902-03年には香港上海銀行の例にならって天津・上海・牛荘支店で〈一覧払手形〉(銀行券)を発行し,08年には大蔵省預金部資金を原資とする対漢冶萍煤鉄公司(かんやひようばいてつコンス)借款の供与機関となる等,日本の中国に対する経済進出の先兵ともなった。
第1次大戦を契機とした日本経済,とくに日本貿易の発展は横浜正金の業務をさらに伸長させ,1920年における海外店舗数は30に達するとともに,第5回増資後の資本金,積立金はそれぞれ1億円に及んで,香港上海銀行,チャータード銀行とともに世界三大為替銀行の一つと称されるに至った。次いで反動恐慌から金解禁(1930年1月実施)にかけての過程では,金輸出禁止下に慢性的入超が続いたため,為替相場は激しく変動しつつ平価を大幅に下回ることが多かったが,政府・日銀の意を体して相場の引上げと安定を図り,31年9月21日におけるイギリスの金本位制離脱後猖獗(しようけつ)を極めた〈ドル買い〉に対しては,日銀による正金建値での正貨払下げに支えられたドルの〈統制売り〉で立ち向かった。同行の国家機関的性格が,〈自由為替〉の生涯の最後の局面でよりあらわになったのである。
33年に外国為替管理法が施行されて以降,戦時統制強化の過程で同行は為替管理の行政補助機関化し,40年6月から7月にかけて実施された為替持高集中制と為替損失補償制によって,それは完全に国家機関化した。そればかりか太平洋戦争期には,対中国連合準備銀行,儲備(ちよび)銀行との預合い協定等の当事者,あるいは日本の勢力圏内決済機構たる特別円制度の運営機関として,〈大東亜金融圏〉の中核に位置するに至った。第2次大戦後,連合軍の勧奨もあって普通銀行に改組され,46年1月(株)東京銀行として再発足した。
→東京銀行
執筆者:山崎 広明
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1880年(明治13)に国立銀行条例に基づいて横浜に設立された銀行。初めは当時の大蔵卿(きょう)大隈重信(おおくましげのぶ)のインフレーション政策にのっとり、正銀の集散を円滑にすることにより銀価の安定を図ることを目的とした。しかし、1881年の政変により松方正義(まさよし)が大蔵卿に就任して紙幣整理を断行してからは、紙幣を銀貨に兌換(だかん)する機能から、紙幣で貸し出して銀貨で回収し、この間の貿易資金を供給する貿易金融機関の機能を果たすようになった。この結果、茶、生糸などの輸出の拡大に貢献した。また、その後ワシントン、ロンドンに支店を設け、わが国の在外資産を管理するようになった。
1887年に横浜正金銀行条例が制定され、同行は半官半民の特殊銀行となり、政府の監督保護と日本銀行による低利融資を受けて、外国為替(かわせ)銀行として国際金融の中心に位置することとなった。日露戦争前後には満州(中国東北)に進出し、銀行券発行、軍票整理にあたった。さらに第一次世界大戦前後には、わが国貿易の飛躍的発展を背景に、世界の各地に支店網を広げ、為替政策に大きく貢献した。第二次世界大戦中は、南方占領地域で活躍するとともに、中国でも戦費の供給などの役割を果たした。敗戦後、在外資産を喪失するとともに、貿易が閉鎖されて貿易金融機関としての役割もなくなったことから、1946年(昭和21)東京銀行を創立して再出発した。これに伴い、横浜正金銀行は翌1947年に閉鎖機関の指定を受けて清算されるに至った。
[原 司郎]
『横浜正金銀行編『横浜正金銀行史』(1920・同行/復刻版・1976・西田書店)』
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第2次大戦前の外国為替専門の特殊銀行。1879年(明治12)に横浜の貿易商と福沢諭吉門下生が商権独立を目的に大隈重信大蔵卿の後援で創立にあたり,80年2月に開業。当初は国立銀行条例にもとづき政府出資をうけたが,87年横浜正金銀行条例にもとづく特殊銀行となり,日本銀行から低利融資をえて外為銀行として成長。日清・日露戦争期に政府対外財政や満州経営などの国策機関ともなった。第1次大戦をへて世界有数の外為銀行に発展し,金解禁や為替管理の実行機関として活躍。太平洋戦争開始後は対日資産凍結や外為国営化にともない占領地金融機関化した。戦後は1946年(昭和21)に閉鎖機関に指定され,事業は東京銀行(現,三菱東京UFJ銀行)に継承。
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…1900年前後にはまた,諸種の特殊銀行が整備された。すでに1880年2月貿易金融を目的とした横浜正金銀行(現,東京銀行)が開業していたが,不動産金融を目的として日本勧業銀行(現,第一勧業銀行)が97年8月,各府県農工銀行が97年11月から開業した。また1900年4月北海道拓殖銀行が北海道の開発金融機関として発足し,02年4月には日本興業銀行が長期工業金融を目的として開業した。…
…これらの資材の国産化は直接建築の西欧化を目標とするものではないが,のちの近代建築成立期の技術的背景を形成した。明治時代の主要な建築として,上野博物館(1881,コンドル),三菱一号館(1894,コンドル),東京裁判所(1896,エンデ,ベックマン,ハルトゥング),日本銀行本店(1896,辰野金吾),横浜正金銀行(1904,妻木頼黄(よりなか)),赤坂離宮(1909,片山東熊)などが挙げられる。明治における西欧風様式建築導入に見られる著しい特色は,西欧の建築体系をその全体でなく,日本が必要としていた側面においてのみ積極的導入がはかられたことである。…
…世界各地に店舗網をもつ日本唯一の外国為替専門銀行(外国為替銀行)であったが,1996年三菱銀行と合併,東京三菱銀行となり,外為専門銀行ではなくなった。東京銀行は,1880年の国立銀行条例に基づいて設立された横浜正金銀行がその母体となっていた。創立当初,日本の外国為替取引はすべて外国銀行の手にあったが,87年の横浜正金銀行条例の制定により,名実ともに外国為替特別銀行としての地位を確立した。…
※「横浜正金銀行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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