長野県の中西部、北アルプス観光の中心地。松本市(まつもとし)に属する。中部山岳国立公園に属し、特別保護地区、特別名勝、特別天然記念物などに指定され、優れた自然景観に特別の保護が加えられ、日本の代表的山岳観光地として知られる。
[小林寛義]
槍ヶ岳(やりがたけ)の南東から流下する梓川(あずさがわ)によって形成された小盆地で、焼岳(やけだけ)の噴出によって侵食基準面が上昇したため、梓川の勾配(こうばい)がこのあたりできわめて緩やかになり、その結果上流よりの砂礫(されき)が堆積(たいせき)して谷底に小平坦(へいたん)地を形成したものである。明神(みょうじん)池、田代(たしろ)池、大正池などの湖沼も点在する。この小盆地の北西側は、槍・穂高(ほたか)連峰から焼岳に続く山稜(さんりょう)が迫り、南東側には六百山(ろっぴゃくざん)、霞沢岳(かすみざわだけ)など2500~2600メートル級の山が絶壁状をなして盆地に迫っている。このため、盆地は北東から南西方向の紡錘状をなし、梓川はその長軸のようなかっこうになっている。盆地の平均高度は1500メートルで、周囲が高峻(こうしゅん)な山岳に囲まれ、梓川の清流など自然の美に恵まれている。気温も高所のため低く、年平均5℃、盛夏の日中でも20℃を超えることは珍しい。近年、上流および周囲の山腹より豪雨のたびに土砂が流入し、平年の推定で6万立方メートル、多い年には20万立方メートルにも達し、このため盆地を流れる梓川の河床が高まり、両岸の遊歩道より高くなり、このままでは現在の景観を維持できなくなるおそれが出てきた。
[小林寛義]
上高地の名称については、神秘性のゆえに神河内であるとか、川の上流を意味する上河内から由来したなどの説がある。文献によれば、近世中期の享保(きょうほう)年間(1716~1736)に書かれた松本藩の官撰(かんせん)地誌『信府統記』に上河内とあり、これが寛政(かんせい)年間(1789~1801)まで続くので、上河内が最初の名称であろう。これが上高地に変わったのは、文化・文政時代(1804~1830)ごろからであることが当時の文書でわかる。
上高地の開発は、松本藩の木材伐採から始まった。ここは近世松本藩領で、藩では享保年間に木材が搬出された記録があるから、それ以前から伐採は始められていたものと思われる。この結果、幕末にはほとんど平地の木は伐(き)り尽くされ、一面の原野になった。1884年(明治17)地元安曇村(現、松本市)の村民は、ここを牧場とする許可を得て、現在の徳沢園から大正池までのおよそ80町歩(約79万3600平方メートル)を借り牛馬を放牧した。この牧場時代が1934年(昭和9)まで続き、同年まで上高地牧場があった。翌年以降森林保護のため牧場が廃止され、幕末いったん皆伐に近い状態になった上高地の樹木が、天然や人工造林により今日の姿になった。
[小林寛義]
松本藩の伐採人が入山したのは江戸前期ごろからと推定されるが、登山を目的とした入山では、1828年(文政11)越中(えっちゅう)富山出身の播隆上人(ばんりゅうしょうにん)が信仰のため槍ヶ岳へ登頂したのが最初である。明治10年代には、イギリス人冶金(やきん)技師W・ガウランドが1878年(明治11)に、そして1891年にはイギリス人宣教師W・ウェストンが入り、同時にこのころ日本の陸地測量部員や登山家小島烏水(こじまうすい)らも入山した。上高地登山道は伐木搬出のため早くから徳本峠(とくごうとうげ)越えの島々谷(しましまだに)ルートがあり、1891年幅6尺(約1.8メートル)の林道に改修され、この道が1933年(昭和8)9月まで本道として利用されていたが、梓川渓谷沿いの車道(国道158号など)の開業とともに利用者は少なくなった。しかし、上高地を巡る山々の景観を味わおうとする人々はいまもこの徳本峠越えの道を歩く。現在、梓川ぞいに上高地へ入るには、路線認可をうけたバス、タクシー、または徒歩によるほかはない(マイカー規制:通年)。自家用車は沢渡(さわんど)、または平湯(ひらゆ)の駐車場に停め、シャトルバスに乗り換えての入山となる。
[小林寛義]
上流からおもなものをあげると、明神岳(みょうじんだけ)直下に明神池がある。上高地の中心河童(かっぱ)橋より徒歩約1時間の上流で、穂高神社の奥宮があり、10月初旬に御船(おふね)神事がある。この近くに上高地開発に尽くしたガイド上条嘉門次(かみじょうかもんじ)の嘉門次小屋があるが、大部分改修し、当時の姿はわずかしかない。河童橋は上高地の中心部で、1920年(大正9)芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)が北アルプスに登り、そのときの経験で『河童』を発表したところから名づけられた。当時は丸太橋で1935年(昭和10)に釣り橋になり、現在のは5代目である。この両岸にはホテルや飲食店、上高地温泉などがあり、7月下旬の盛夏は雑踏する。橋上からみる奥穂高の山容や梓川両岸のケショウヤナギ、シラカンバ、カラマツの木々は上高地の代表的景観で、カラマツが紅葉する10月中旬橋からの焼岳の眺望はすばらしい。梓川の右岸にはウェストンを記念する碑があり、6月初旬にウェストン祭が行われる。大正池は上高地盆地の入口にあたり、河童橋とともに上高地の代表的名勝地。1915年焼岳の噴出物で梓川がせき止められてできた池で、当初は池中に枯れ木が立ち、幻想的な池であったが、相次ぐ土砂の流入で川のように狭くなってしまった。
[小林寛義]
『『上高地』(1964・朋文堂)』▽『横山篤美著・刊『上高地開発史 その1~4』(1966~1969)』▽『宮本常一著『私の日本地図2 上高地付近』(1967・同友館)』▽『横山篤美著『上高地開発史』(1971・山と渓谷社)』
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
長野県北西部,松本市の旧安曇(あずみ)村にある小盆地。特別名勝,特別天然記念物に指定された景勝地で,飛驒山脈(北アルプス)と前山の常念山脈の間を流れる梓川沿いにあり,槍沢と横尾谷との合流点から大正池まで長さ16km,幅が500mほどで,狭く細長い。この間梓川は1/100ほどの緩こう配で流れ,水量も豊かである。地形学者の中には,上高地の盆地は氷河のつくったU字谷であると主張している人もいる。上高地の地名はかつては盆地を示す神河内,上河内と書かれていたが,幕末の松本藩の公文書には上高地と書かれ,国土地理院の地形図にも明治以来同様な表記になっている。河童(かつぱ)橋付近の標高は1560mであり,8月の平均気温は19.7℃,日中の平均最高気温が22℃程度で,東京の5月下旬の気温とほぼ等しく,真夏でも暑さを知らない別天地である。しかし,冬の寒さはきびしく,1月の平均気温は-7.7℃で,12月から3月までの最低気温は-15℃以下の日々が続き,積雪量は1~2mに達する。雪崩の危険があって中ノ湯以北の道路が閉鎖されるため,旅館は冬季休業する。
江戸時代,北アルプスの山々が松本藩有林であったため,大野川など梓川沿い集落の農民が杣人(そまびと)として上高地に入り,木材を伐採した。白木は人が背負って徳本(とくごう)峠(2135m)を越えて搬出したが,榑木(くれき)(屋根板の原料)と薪炭は梓川を川下げした。また梓川の流域はニホンカモシカやツキノワグマなどの野生動物やイワナなどの川魚の宝庫で,冬には狩猟,夏には漁労のため上高地に入る人々も多く,現存する嘉門次小屋は,猟師小屋の典型であった。明治中ごろから昭和初めまで徳沢から明神池,小梨平にかけて,国有林を借りて夏の間牛が放牧されていたが,上高地の観光地化とともに廃止された。その際利用された牛番小屋が徳沢園である。また明神池のほとりには,安曇野市の旧穂高町にある穂高神社の奥社がある。上高地は明治20年代にイギリス人宣教師W.ウェストンによって紹介され,昭和に入ってから,1927年東京日日新聞社が選定した〈日本新八景〉に選ばれ,また同年芥川竜之介が上高地を舞台にした《河童》を発表し,観光地として有名になった。28年から梓川電気(現,東京電力)が梓川沿いに車道を工事用に開削し始め,33年難工事だった釜トンネルが開通,9月には河童橋までバスが乗り入れたため,難所の徳本峠を越えずに上高地に入れるようになった。同年上高地帝国ホテルが建設され,さらに34年上高地を中心とする北アルプス全域が,日本最初の国立公園中部山岳国立公園に指定されて観光客が急増した。北アルプスの登山基地でもあり,6月初旬,ウェストン碑の前で山開きが行われる。
執筆者:市川 健夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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