小川城跡(読み)おがわじようあと

日本歴史地名大系 「小川城跡」の解説

小川城跡
おがわじようあと

[現在地名]月夜野町月夜野 小川

沼田盆地の西北、利根川赤谷あかや川の合流点近くの台地上にあり、上越両国間の交通路である三国街道と清水しみず峠越往還が合流する交通の要衝。城の東方は利根川に面した断崖で北側に古城こじよう沢、南側に八幡はちまん沢の谷があり、西側は大峰おおみね山に続く緩やかな台地となる。利根川寄りに本丸があり西の二ノ丸との間には掘切りがなされ、堀切には折がつけられている。北側に土居、南西部に櫓台跡が残り、本丸先端部にささ曲輪の地が推定される。


小川城跡
おがわじようあと

[現在地名]小川町小川 古城内

園部そのべ川左岸、御殿山ごてんやまの台地にあった平城。古くは小河城とも記され、また園部氏が居城したことから園部城とも称された。建久年間(一一九〇―九九)下河辺政義の子政平の築城といわれ、結城系図に「政平小河二郎」とある。政平は小河郷地頭として小河を名乗り、この地に土着、小河三千石を開き、その後朝平・義忠・義広と居城したというが不詳。また結城家譜には「朝光三世之孫広総代(中略)六男移于常州小川、七郎左衛門尉義広名乗也」とある。

胤信筆記(鳥羽田文書)によると、享禄元年(一五二八)小田政治の家臣園部兼泰が小川城に移住し、小川一〇ヵ村五千石を支配した。


小川城跡
おがわじようあと

[現在地名]東吉野村大字小川・小・小栗栖

おむら古城ふるしろと小川・小栗栖こぐりすにまたがるハルトヤの二城跡。小川氏の居城。屈強の要害地で、山腹の中ほどを川上村を経て熊野に通ずる東熊野街道が通り、小川氏の穀倉宇陀郡と北畠氏の根拠地に通じる伊勢南街道もあり、頂上から吉野山も遠望できる。南北朝時代から後南朝の時代にかけて常に両勢力接点にあり、小川氏のおかれた立場から居城としてかっこうの地というべきである。

小川氏は丹生川上にうかわかみ神社の神主で、大乗院門跡方の国民として大乗院領竜門庄大熊四郷など吉野・宇陀の郡境地帯の荘官となって発展した。


小川城跡
おがわじようあと

[現在地名]信楽町小川 和田

小川集落の南東にあるしろ(四七〇・四メートル)山頂に立地。県指定史跡。昭和五三年(一九七八)から二年にわたり、踏査測量、部分的な発掘調査が実施された。その結果、山頂およびその周辺で九ヵ所の郭跡と、それを囲む土塁・石塁・空堀・城戸口・堀切・井戸跡・城内道などの遺構が確認された。また本丸とみられる中央郭跡などで礎石建物が検出された。この建物は五間(南北八・四メートル)×四間(東西八メートル)の南北棟で、建物内部に二間×三間の塗壁造の土倉様の建物が存在した。


小川城跡
おがわじようあと

[現在地名]亀山市小川町 一色

小川の集落を北西に見る高台上の西側と中央に土塁があり、北側にも土塁が続く遺構がある。小川図書頭が居守したという砦跡で、東西四四間、南北一六間。「九九五集」は「小川図書住所、小川一郷之給人之由也、此外辺法寺(中略)百石知行ス」と記している。小川氏の祖、小川下野守は観応二年(一三五一)一一月、凶徒追伐の戦功によって、南朝綾小路大納言から勲書を賜ったといわれ(五鈴遺響)、南北朝期にはすでに相応の勢力を養っていたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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