小田中村
おだなかむら
[現在地名]津山市小田中
南東部は津山城下町に入込み、北西には丘陵地が広がり、南の平地部は吉井川に接する。鎌倉時代末期のものと推定される足利氏所領奉行人交名(倉持文書)に田中郷とあるが、当地とのかかわりは不明。弘治三年(一五五七)仮託の美作国献上記(美作古簡集)には西北条郡のうちに田中郷があり、当摩末光が曾岐板一〇〇枚を進上とある。天正六年(一五七八)三月一五日羽柴秀吉は中島吉右衛門尉などに対し、田中の一五〇貫文を含む一千一五〇貫文を安堵している(「羽柴秀吉安堵状」同書)。「森家伝記」によれば、慶長九年(一六〇四)是春条に「田中郷山北村に宮を建」とあるので、当地周辺を田中郷と称したと思われる。
西北条郡に属し、元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。慶長一九年一〇月二〇日、森忠政の家臣と思われる武藤勝右衛門ら三名は「新田小田中村」の庄屋百姓中に宛て、白神の田畑二八〇石余に対する免を定めている(「年貢割付状」秋山文書)。
小田中村
こだなかむら
[現在地名]鹿島町小田中
内浦街道に沿い、南西は出合川(現長谷川)を境に藤井村。同街道を挟んで親王塚と亀塚が並び、村名の由来について小田の墓がつまったと推測する説がある(能登志徴)。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「小田中保」とみえ、公田数は旧来の八町三を建暦二年(一二一二)の国衙の検注で六町に改めたとある。寿永二年(一一八三)五月一二日越中礪波山の合戦で平家方に勝利した木曾義仲が、志雄山(現志雄町)を越えて「小田中新王の塚」の前に陣を取り、加賀の白山宮、菅生社(現加賀市)、多田八幡宮(現小松市)、越前の気比社(現福井県敦賀市)、平泉寺(現同県勝山市)に神領寄進の沙汰を行ったという(平家物語)。
康永三年(一三四四)三月一二日小田中保をめぐる相論で、藤原氏女代と中御門前宰相(宣明)雑掌に出廷が命じられている(「文殿廻文」師守記紙背文書)。
小田中村
こだなかむら
[現在地名]中野市大字小田中
東は更科、南は新野・間山、西より北は中野の各村に接している。
初見は武田信玄が永禄七年(一五六四)一二月、西条美作守に更級郡原・今里の替地として、高梨領のうち新保四〇〇貫と小田中三〇〇貫を宛行うと武田信玄宛行状(別本歴代古案)にみえる。
天正六年(一五七八)二月、高梨領の小田中・吉田・上条郷で、都合二三貫二〇〇文を下諏訪秋宮の瑞籬六間の造宮に寄進している(下諏訪秋宮造宮帳)。次いで翌七年二月八日、武田勝頼は弥彦社祝らに、小田中郷等に筑摩郡小野社の造宮を務めさせている(「武田勝頼朱印状」小野文書)。
小田中村
こだなかむら
[現在地名]天理市小田中町
上総村東南方に所在。貞和三年(一三四七)の興福寺領大安寺方段米並田数注進状(春日神社文書)に小田中庄がみえる。慶長郷帳の村高三一九・一六石。幕府領(代官大久保長安)から元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となる。この時代二割半無地高増政策により村高三九八・九五石。延宝七年(一六七九)幕府領、宝暦一二年―寛政七年(一七六二―九五)、文政七年―安政二年(一八二四―五五)の清水御領知の時代を経て幕末再び幕府領。
宝暦一三年の和州山辺郡小田中村指上ケ明細帳(小田中区有文書)によると「当村往古より旱損場ニ御座候、水損ハ無之候」村方で、「用水川ト申義者一切無御座」「溜池壱ケ所有之」のみで、反別二一町四反三畝二一歩のうち一町余は天水場であった。
小田中村
こだなかむら
[現在地名]篠山市小田中
草ノ上村の北にあり、大芋川が流れる。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「小田中村」とみえ、高二五六石余。正保郷帳では田高二二九石余・畠高二七石。「丹波志」では草上郷(村雲庄)のうちで、高二二七石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 