日本歴史地名大系 「小田中村」の解説
小田中村
おだなかむら
南東部は津山城下町に入込み、北西には丘陵地が広がり、南の平地部は吉井川に接する。鎌倉時代末期のものと推定される足利氏所領奉行人交名(倉持文書)に田中郷とあるが、当地とのかかわりは不明。弘治三年(一五五七)仮託の美作国献上記(美作古簡集)には
西北条郡に属し、元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。慶長一九年一〇月二〇日、森忠政の家臣と思われる武藤勝右衛門ら三名は「新田小田中村」の庄屋百姓中に宛て、
小田中村
こだなかむら
内浦街道に沿い、南西は
康永三年(一三四四)三月一二日小田中保をめぐる相論で、藤原氏女代と中御門前宰相(宣明)雑掌に出廷が命じられている(「文殿廻文」師守記紙背文書)。
小田中村
こだなかむら
小田中村
こだなかむら
宝暦一三年の和州山辺郡小田中村指上ケ明細帳(小田中区有文書)によると「当村往古より旱損場ニ御座候、水損ハ無之候」村方で、「用水川ト申義者一切無御座」「溜池壱ケ所有之」のみで、反別二一町四反三畝二一歩のうち一町余は天水場であった。
小田中村
こだなかむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報