小田原城跡(読み)おだわらじようあと

日本歴史地名大系 「小田原城跡」の解説

小田原城跡
おだわらじようあと

現小田原市城内じようない城山しろやまを中心に、外郭は東は山王さんのう川右岸、西ははや川左岸に広がる。伝承では土肥氏一族の小早川氏の取立てという。大森氏・小田原北条氏・小田原藩主歴代の居城。

〔戦国時代〕

鎌倉大草紙」は、上杉禅秀の乱没収地として応永二四年(一四一七)に小田原の土肥土屋の跡に大森頼顕が入り、康正二年(一四五六)に大森安楽斎入道父子が小田原城を取立てたとするが、「北条記」には大森氏頼が取立てたとみえ、室町中頃には大森氏の居城となっていたと思われる。明応四年(一四九五)北条早雲が大森氏を追い、以後天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉小田原攻めで開城するまで北条氏の居城であった。

大森氏後期から北条氏の初期には八幡はちまん山丘陵を核とする古郭が形成され、その周囲にいくつもの曲輪を同心円状に配置し、西端は堀切で画され、東は現在の天守閣北側の城米曲輪付近に空堀が設けられたと考えられる。北の空堀は一部が昭和五一年(一九七六)に発掘調査され、静岡県三島みしま市の山中やまなか城跡と同様の構造をもつ畝堀であった。やがて丘陵先端から低地に拡張され、平山城としての諸曲輪を構築し、空堀と池沼を利用した水濠がめぐらされ、後に八幡山の空堀と低地の水濠が接続され二つの郭心部が連結された。この後さらに山地天神てんじん山丘陵から小峯お鐘の台に、低地は近世の三ノ丸区域にまで拡大し、水濠がつくられた。天文二〇年(一五五一)京都南禅なんぜん寺の東嶺智旺は「明淑録」で「太守の塁は喬木森々として高館巨麗なり、三方に大池あり、池水は湛々として浅深はかるべからず、白鳥そのほかの水鳥翼々然たり」と城の威容を伝えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「小田原城跡」の解説

おだわらじょうあと【小田原城跡】


神奈川県小田原市城内にある城跡。天下の嶮と称される箱根山を東に下った箱根口にあり、現在は1960年(昭和35)に復興された天守を東海道新幹線の車窓から眺めることができる。平安時代末期、豪族土肥氏の一族、小早川氏の居館があったといい、その後、城は大森氏の手にわたり、1495年(明応4)には伊勢盛時(のちの北条早雲)が大森氏からそれを奪い、拡張したという。しかし、早雲は韮山(にらやま)城を本拠としており、息子の氏綱(うじつな)が1519年(永正16)以降、初めて小田原城を拠点としたと考えられている。以来、氏康、氏政、氏直の時代まで、戦国大名北条氏(後北条氏)の5代にわたる居城となった。北条氏は現在の天守の周辺を居館区域として寝殿や会所を造営し、後背にあたる八幡山に主要城郭を築いた。1561年(永禄4)には上杉謙信の、1569年(永禄12)には武田信玄の攻撃を跳ね返し、難攻不落の城として知られた。城の中心部は3重の堀で囲われ、八幡山から海ぎわにいたるまで、小田原の町全体を総延長約9kmの土塁と空堀で囲み、城下と城外の境界として現在もその遺構が残る。1590年(天正18)、天下統一を目の前にした豊臣秀吉は各地の大名を動員して22万ともいわれる軍勢で城を包囲し、後見役の氏政と当主氏直は約3ヵ月の籠城戦のすえ、ほとんど無血で開城した。戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、腹心の大久保忠世(ただよ)が入城した。大久保氏は城の規模を縮小し、居館区域を近世城郭に改めた。1938年(昭和13)に国指定史跡になり、後北条氏時代の空堀や土塁、堀切りなどが数度にわたって追加指定を受けた。現在では城の中心部を江戸時代末期の姿に復元する計画が進み、常盤木(ときわぎ)門や銅(あかがね)門、馬出門などが再建されている。JR東海道新幹線ほか小田原駅から約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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