江戸時代の力士。5代横綱。近江国大津の生れ。本名,川村喜三郎。大坂相撲から1779年(安永8)江戸へ出て二段目筆頭(いまの十両)に付け出される。久留米有馬侯に召し抱えられ,当時8場所土つかずの谷風梶之助を破り,〈谷風は負けた負けたと小野川や かつをよりねの言いとり沙汰〉と蜀山人の狂歌で大評判となった。この時期,勧進相撲は黄金時代を迎え,徳川将軍上覧相撲にそなえ,89年(寛政1)谷風とともに前例のない横綱土俵入り免許を受けて観客の目を見張らせた。176cm,116kgの技能派力士で,幕内成績144勝13敗の好記録。現役時代から芝金杉の有馬侯下屋敷に身を寄せて弟子を養成,講談有馬の怪猫退治はこのころに創作された。97年引退。帰坂して大坂頭取就任,水茶屋経営という通説は誤りで,一代年寄として江戸で没し,芝の有馬侯菩提寺に葬られ,明治まで墓があった。
執筆者:池田 雅雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(水野尚文)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…講談。4代横綱谷風とその弟子雷電および小野川の3名の力士を中心に,佐野山の孝心,稲川の義俠などを描く。なかでも谷風の七善根,雷電の封じ手,小野川雷電遺恨相撲などがおもしろい。小田原の仇討相撲は一席物として今日でもよく演じられる。これを語って有名な真竜斎貞水(しんりゆうさいていすい)(のちに早川貞水,1917没)は国技館木戸御免であったし,貞鏡時代の1896年に《寛政力士伝》を刊行した。【吉沢 英明】…
…横綱に関する古文書は少なく,1773年(安永2)に行司式守五太夫の書いた伝書によると,その起源は,城や屋敷を建てるときの地鎮祭に大関2人を招き,おはらいの地踏みを行ったが,その儀式免許を京都五条家が〈横綱之伝〉を許すといったことから始まったとされる。これを職業相撲の興行の土俵に移したのが吉田司(よしだつかさ)家で,89年(寛政1)11月場所中に,初めて谷風梶之助,小野川喜三郎の両関脇(実力大関)に,〈横綱〉というしめ縄を腰にまとって土俵入りする免許を与えた。当時,横綱は腰にまとったしめ縄をさすのみで,もちろん番付には関係がなく,また大関の称号でもなかった。…
※「小野川喜三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新