現在は相撲番付の最高地位,また,その力士をさす。横綱に関する古文書は少なく,1773年(安永2)に行司式守五太夫の書いた伝書によると,その起源は,城や屋敷を建てるときの地鎮祭に大関2人を招き,おはらいの地踏みを行ったが,その儀式免許を京都五条家が〈横綱之伝〉を許すといったことから始まったとされる。これを職業相撲の興行の土俵に移したのが吉田司(よしだつかさ)家で,89年(寛政1)11月場所中に,初めて谷風梶之助,小野川喜三郎の両関脇(実力大関)に,〈横綱〉というしめ縄を腰にまとって土俵入りする免許を与えた。当時,横綱は腰にまとったしめ縄をさすのみで,もちろん番付には関係がなく,また大関の称号でもなかった。当時の幕政は新規の儀式を禁止していたため,吉田司家は前例として綾川五郎次,丸山権太左衛門の2人を挙げ,谷風,小野川の横綱免許の願書を提出しているが,これは書式をととのえるための作為である。谷風,小野川の〈独(ひと)り土俵入り〉は,その珍しさが好評だったという。江戸時代から明治初期のころまで,多くは徳川将軍上覧相撲,天覧相撲に際して横綱免許が行われたが,時代の推移とともに興行政策上の儀式的な色合いがこくなってきた。
横綱力士という名称と代数をつけることを発案したのは,みずからも横綱の免許を受けたことのある12代陣幕久五郎(1829-1903)で,自己顕示の理由もあって,1895年大関のなかで横綱免許を受けた力士を他の大関と区別して〈横綱力士累代姓名〉という文書を配布し,東京深川八幡境内に横綱力士碑を建てる寄付金を募集した。このとき伝説上の力士,明石志賀之助を初代に綾川,丸山を加え16代西ノ海までを碑の裏面に刻して表彰し,1900年に完成した。この石碑は相撲協会や吉田司家に関係なく,陣幕が独力で建てたものであり,当時の相撲史研究家の間からも,初代から3代までは史実になく,谷風を初代にすべきであるとの論議があり,現在にまで尾を引いているが,今ではこの代数が定着している。
番付が示す地位に〈横綱〉の文字を冠したのは1890年5月場所の初代西ノ海からである。江戸時代から東西の大関は1人ずつであったが,この場所から前例のない4大関が出現し,場所前に横綱免許を与えられた西ノ海は成績が第2位のため欄外に張り出されることの不満を訴えた。師匠の初代高砂は窮余の策として番付に横綱を明記して張出しを納得させたが,この思いつきが横綱を称号化させると同時に番付上の地位とする前提となった。さらに陣幕の横綱力士碑建立がこれに拍車をかけ,次の小錦から本場所の成績によって横綱免許を与えるように推移して,横綱はしだいに免許を受けた大関の称号になった。このような状態は間もなく常陸山,梅ヶ谷(2代)の両大関が初めて番付欄内の正位置に横綱として置かれてから,欄外張出しの大関横綱の意味が薄れ,1908年相撲協会では横綱を階級地位として成文化した。その一項に〈横綱大関の称号は従来最高力士と称せしも,爾来最高地位の力士と改称す〉と公表した。しかし,この字句があいまいのため,51年〈横綱は大関の上の最高位〉と再確認した。大関が空席のときは,横綱が大関を兼ねる慣例は現在も変わらない。
横綱免許は,相撲司家として全国の相撲関係者を傘下に従えた吉田追風によって授けられていたが,明治維新後に,江戸相撲(東京)の傘下から独立した大阪・京都相撲は,同時に華族として復権した相撲家元京都五条家から横綱免許を受けるようになり,番付の大関のわきに小さく〈横綱土俵入〉と明記した。番付に横綱の文字を出したことは東京相撲より先鞭をつけたことになり,横綱というものが土俵入り儀式を主眼とした事実がわかる。明治初期に五条家免許を受けた京阪横綱12人は,歴代横綱のうちには数えられていないが,明治末期と大正初めに大阪から2人の横綱が吉田司家から免許を受けている。51年1月,日本相撲協会は吉田司家から横綱免許権を移譲され,協会独自の立場で横綱を推挙することになり,司家は形式だけの存在になって,200年間にわたる相撲家元としての権限は大きく変革された。なお横綱になるには,大関で2場所連続優勝あるいはそれに準ずる成績をおさめた者を協会から横綱審議委員会に諮問し,満場一致の賛成が得られれば栄進が決まる。
執筆者:池田 雅雄
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職業相撲(すもう)における番付上の最高位の階級。横綱力士の略称。また学生相撲の優勝者に与えられる「しめなわ」(学生横綱)。横綱の意味と内容は、時代によってかなり変わってきている。1789年(寛政1)、これまで寺や屋敷を建設するとき、力士によって行われていた地固め式の作法(しこ踏み)を、土俵上で演出することを考えた吉田司(つかさ)家が、谷風・小野川に「横綱之伝」を免許して、場所中に横綱土俵入りを披露(ひろう)したのが始まりである。当時の「横綱」とは、土俵入りのとき腰にまとう「しめなわ」をさしていい、横綱免許とは「しめなわ」を締めて1人土俵入りをする資格を伝授することであって、横綱は力士の階級でも尊称でもなかった。また直接には優勝に関係がなく、徳川将軍上覧相撲に際して選ばれた大関力士に儀式上の必要から免許が与えられた。幕末の混乱期にはその意味も薄れ、明治に入って長年功労のあった大関や天覧相撲に際して免許した例もある。維新後に独立した大阪・京都相撲は、吉田司家と別の相撲の家元五条家から横綱免許を得て、初めて番付に「横綱土俵入仕候」と書き添えた。
1890年(明治23)5月、横綱免許の西ノ海が大関にかわる横綱の文字を初めて番付に記したことが、横綱を階級化する前提となった。これに刺激された幕末の大関陣幕(じんまく)は、引退して30年後の1895年に、これまでの大関力士のうちから横綱免許を受けた力士を「横綱力士」として選び、これを顕彰する記念碑建立(こんりゅう)を計画し、考案した横綱代数記載の文書を配布した。これには、明石(あかし)、綾川(あやがわ)、丸山の非実在の伝承力士まで加え、西ノ海の16代までを数え、記念碑は1900年(明治33)に完成した。さらに5年後には常陸山(ひたちやま)、梅ヶ谷(うめがたに)に免許があって、これまで張り出された横綱が正欄に記載されてからは、一般に階級とみるようになり、1911年には相撲協会が横綱を階級として成文化し確定した。1950年(昭和25)には「横綱審議委員会」という諮問会を設け、横綱の免許は相撲協会が候補力士を推挙し、その適否について横綱審議委員会の諮問を得て決定のうえ、協会が推挙状を授与する形式となった。なお現在の横綱推挙の条件は2場所連続優勝か、これに準ずる好成績をあげた大関力士となっている。
[池田雅雄]
綱の材料は、麻8~12キログラム、銅線3本、晒木綿(さらしもめん)6~9反。麻を米ぬかでもみほぐして絹糸のように細くし、もんだ麻を3本に分けて銅線を芯(しん)にして三筋つくる。これを晒2反で堅く巻き、3メートルぐらいの長さの綱を3本つくる。晒を巻くとき、腹部の前面にくるところを太くして両端は細くする。そして3本の綱を真中から左練りに撚(よ)り合わせる。これを綱打ち式といい、約3時間かかる。
[池田雅雄]
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(根岸敦生 朝日新聞記者 / 2007年)
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…横綱力士の別称。室町時代から〈天下一〉という言葉が流行したが,この呼称が1682年(天和2)に禁令になったため,武芸者,芸能者らは,これに代わって〈日下開山〉を用いるようになった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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