大相撲史上に残る、江戸時代の伝説的な強豪力士。日本相撲協会の資料によると、1767年、現在の長野県東御市に生まれる。幕内在位は36場所で、大関は27場所務めた。身長197センチ、体重170キロほどの体格で、幕内では254勝を挙げ、負けはわずか10番だった。あまりに強かったため張り手などが禁じられたと伝えられている。教養も高く「雷電日記」といわれる巡業を記録した「諸国相撲控帳」を書き残したとされる。
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江戸中期の強豪大関。信濃国小諸在大石村(現,長野県東御市滋野大石)に生まれる。本名関太郎吉。村の庄屋に見いだされ,浦風部屋の隠し道場で稽古を積み,23歳のとき江戸に出て入門。1790年(寛政2)いきなり西関脇に付け出されたが,入門前の88年雲州(松江)の松平侯に召し抱えられた。95年谷風亡きあと大関に昇進。6尺6寸(197cm),45貫(169kg)の巨体から繰り出す怪力のため,張り手,鉄砲(突っ張り),かんぬきの3手を禁じられたという伝説を,現役時代に生んだ。その無敵ぶりは1811年(文化8)に引退するまで21年間32場所,その間わずか10敗(254勝),勝率96.2%で,古今最高を記録している。引退後,松江藩の〈お相撲頭〉に任ぜられた。当時の横綱は上覧相撲を機に免許される土俵入り資格であって,番付の最高位は大関であった。雷電は横綱免許の機会はなく,明治以後の講談《寛政力士伝》では,土俵上で相手を投げ殺したため,横綱になれなかったという俗説が語られている。強いばかりでなく13年間の巡業日記を残し,東御市の実家に現存している。
執筆者:池田 雅雄
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(水野尚文)
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江戸時代の強豪力士。信州大石村(現長野県東御(とうみ)市)生まれ。本名関太郎吉。23歳のとき浦風部屋に入門し、1788年(天明8)松江藩主松平家のお抱え力士となり、雷電と名のる。91年(寛政3)西関脇(せきわけ)に付け出され、95年谷風のあと西大関に昇進した。身長197センチメートル、体重169キログラムの巨体から繰り出す怪力のため、張り手・鉄砲(上突っ張り)・かんぬきの三手を禁じられたという伝説を生んだ。その強豪ぶりは、1811年(文化8)43歳で引退するまで、21年間32場所三役を下ったことがなく、254勝10敗、勝率9割6分2厘、連続優勝7回という、いずれも古今最高を記録した。その間、小野川をはじめ11人の東大関を相手に一歩も譲らず、44連勝、43連勝した。当時「横綱」とは、土俵入りのときに腰にまとう「しめなわ」のことをさしていい、力士の階級でも尊称でもなかった。そして、徳川将軍の上覧相撲に際して選ばれた大関力士が、儀式としてしめた。雷電は、その機会に恵まれなかっただけで、当時の最高位・大関で、無敵の強さをほこった。
[池田雅雄]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…講談。4代横綱谷風とその弟子雷電および小野川の3名の力士を中心に,佐野山の孝心,稲川の義俠などを描く。なかでも谷風の七善根,雷電の封じ手,小野川雷電遺恨相撲などがおもしろい。小田原の仇討相撲は一席物として今日でもよく演じられる。これを語って有名な真竜斎貞水(しんりゆうさいていすい)(のちに早川貞水,1917没)は国技館木戸御免であったし,貞鏡時代の1896年に《寛政力士伝》を刊行した。【吉沢 英明】…
…戌立(いんたて)石器時代住居跡は国史跡に指定されている。大石は江戸中期の名力士雷電為右衛門の出生地である。【柳町 晴美】。…
※「雷電為右衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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