小野組(読み)おのぐみ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「小野組」の意味・わかりやすい解説

小野組
おのぐみ

近世商人、明治初期の政商近江(おうみ)国高島郡(滋賀県高島市)の出身。万治(まんじ)年間(1658~61)東北の南部地方との交易を始め、上方(かみがた)の物資を南部地方へ、逆に南部の物産を上方へ移送、酒造業や両替商も営み発展した。1708年(宝永5)京都に進出。1776年(安永5)には為替(かわせ)十人組に、1866年(慶応2)には江戸本両替となる。繰綿(くりわた)、木綿(もめん)、和糸(わいと)、生絹(すずし)などの売買を通じて三都に支店をもつまでになった。1868年(明治1)新政府より三井組、島田組とともに為替方に任ぜられ、政府の財政確立を助ける。三井組に比べて、各府県の為替方に積極的に進出した。1872年、私立銀行設立を計画、三井・小野組合銀行を経て第一国立銀行(1873)を実現させた。しかし国庫金の乱用と、製糸業鉱山業経営に多額の資金を投入したため、明治政府の担保要件の強化にあうと経営に行き詰まり、ついに1874年末破産した。

[加藤幸三郎]

『宮本又次著『小野組の研究』全4巻(1970・大原新生社)』『久保田暁一著『異色の近江商人――小野組物語』(1994・かもがわ出版)』

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百科事典マイペディア 「小野組」の意味・わかりやすい解説

小野組【おのぐみ】

江戸時代から明治初年の富商。屋号井筒屋,近江(おうみ)の出で各種物産の問屋として発展,京都に本拠を置き,両替商として幕府為替御用を務め江戸へも進出した。明治維新には新政府の財政確立に寄与し三井・島田両組とともに為替方御三家となり,国庫金の無利子運用で巨利を占め,第一国立銀行設立に参加,製糸事業へも進出したが,1874年政府が為替方の担保制度を強化し,官金の回収を実施したことにより窮地に立たされ,島田組とともに破産,没落。
→関連項目第一銀行[株]古河市兵衛

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「小野組」の解説

小野組
おのぐみ

江戸時代~明治初年の豪商。初代新四郎則秀が近江国高島郡大溝で,上方と南部地方(盛岡)との物産を交易したとされる。1662・63年(寛文2・3)に盛岡,ついで京都・江戸に出店し,1776年(安永5)金銀御為替御用達に加入し,大名貸も営んだ。明治維新に際しては,金穀出納所御用達となり,通商会社・為替会社などに参加,陸軍省や多数の府県の為替方として官金を扱い,三井組とともに三井小野組合銀行(のちの第一国立銀行)を組織した。また蚕種の直輸出に乗りだすとともに,築地製糸場(1871開業)をはじめ各地で器械製糸業を営み,院内・阿仁(あに)などの鉱山をも経営した。しかし1874年(明治7)の官金に対する抵当増額の達(たっし)に対応できず,11月閉店した。

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世界大百科事典 第2版 「小野組」の意味・わかりやすい解説

おのぐみ【小野組】

江戸時代から明治初期の豪商。小野家は初代新四郎則秀が近江国高島郡大溝で,陸羽の物産と京都,大坂および近国の物産とを交易していたとされる。1662‐63年(寛文2‐3)ころ次男の主之が盛岡に下り,近江屋を称し,村井権兵衛を名乗った。甥の子供である盛岡紺屋町の井筒屋の小野善助(1708上洛),京都の鍵屋の小野権右衛門,南部で〈紺印〉の祖となった小野清助などがこれに協力した。小野一族は繰綿,木綿,古手などの雑品を南部にもたらし,砂金,紅花,紫根,生糸などを上方,江戸に送って利益を得て,南部に定住し,質屋,酒・みそ・しょうゆの製造販売をした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「小野組」の解説

小野組
おのぐみ

明治初期の政商・金融業者
江戸時代,本拠を京都に置いて,糸割符 (いとわつぷ) 商人,のち両替商として活躍。明治維新の際,新政府を援助して1868年為替方となり,官金出納事務に従事。のち三井組と第一国立銀行を設立。事業を拡大したが,'74年破産。

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