小関三英(読み)コセキサンエイ

デジタル大辞泉 「小関三英」の意味・読み・例文・類語

こせき‐さんえい【小関三英】

[1787~1839]江戸後期の蘭学者医者出羽の人。名は好義。江戸で医学蘭学を学び、岸和田藩医・幕府天文台翻訳掛を務めた。尚歯会一員となり、蛮社の獄に連座して自刃

おぜき‐さんえい〔をぜき‐〕【小関三英】

こせきさんえい

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精選版 日本国語大辞典 「小関三英」の意味・読み・例文・類語

おぜき‐さんえい【小関三英】

  1. 江戸後期の医者、蘭学者。名は好義。出羽の人。幕府天文台の和解御用(翻訳係)となる。高野長英渡辺崋山らと親交を結び、蛮社の獄の際、自殺。訳著「泰西内科集成」など。天明七~天保一〇年(一七八七‐一八三九

こぜき‐さんえい【小関三英】

  1. おぜきさんえい(小関三英)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小関三英」の意味・わかりやすい解説

小関三英(こせきさんえい)
こせきさんえい
(1787―1839)

江戸後期の蘭方医(らんぽうい)、蘭学者。出羽(でわ)国鶴岡(つるおか)(山形県鶴岡市)に農家の二男として生まれる。初名弁介また貞橘。名は好義。篤斎また鶴州と号した。初め三栄と称し、1835年(天保6)ごろ三英に改めた。1804年(文化1)江戸に出て蘭方医吉田長淑(ちょうしゅく)(1779―1824)について医学・蘭学を学ぶ。1821年(文政4)鶴岡に帰って医を開業し、翌1822年仙台藩医学館蘭方科講師に招かれ、1823年の冬着任するが、まもなく辞任。1831年(天保2)江戸に出て、桂川甫賢(かつらがわほけん)(1797―1845)方に寄寓(きぐう)し、在京の蘭学者たちと交わり、渡辺崋山(かざん)を知った。1832年岸和田藩に仕官し藩医となる。江戸の赤坂溜池(ためいけ)山王隣の岸和田藩邸の長屋に居住。1833年天文台翻訳掛を命ぜられ、『厚生新編』の訳述事業に参加し、第60~70巻の訳述に従事した。また崋山、高野長英らとともに進歩的洋学者の団体尚歯会(しょうしかい)に属し、地理、歴史を講じて西洋事業研究の有力メンバーとなり、1835年天文台蘭書翻訳方を命ぜられた。1839年いわゆる「蛮社の獄」が起こり、崋山の入獄、長英の自首により、自分も罪を逃れることはできないと思い、同年(天保10)5月17日自刃した。53歳。コンスブルックG. W. Consbruch(1764―1837)の内科書を訳して『泰西内科集成』(全40巻)の大業をなし、また『西医原病略』『牛痘種法』『熱病総論』などの医書、さらに『那波列翁(ナポレオン)伝』やプリンセンP. J. Prinsen(1777―1854)の地誌を訳した『新撰(しんせん)地誌』など西洋史・地誌に関するものもある。青山(東京都港区)竜巖(りゅうげん)寺に葬られる。

[片桐一男]


小関三英(おぜきさんえい)
おぜきさんえい

小関三英

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百科事典マイペディア 「小関三英」の意味・わかりやすい解説

小関三英【こせきさんえい】

江戸後期の蘭学者。名は好義。通称良蔵。号は鶴洲,あるいは篤斎(とくさい)。出羽(でわ)国鶴岡の生れ。江戸で吉田長叔(ちょうしゅく)・馬場佐十郎(さじゅうろう)に蘭学を学ぶ。コンスブルフの内科書を訳して《泰西内科集成(たいせいないかしゅうせい)》の大業をなす。1832年和泉(いずみ)国岸和田(きしわだ)藩の藩医となる。のち幕府天文方の翻訳係を勤めたころ渡辺崋山(かざん)・高野長英(ちょうえい)らの尚歯会(しょうしかい)に加わり歴史や地理を講じたが,蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)の際,崋山に《耶蘇伝(やそでん)》を口訳したことを苦にして自殺。
→関連項目尚歯会

小関三英【おぜきさんえい】

小関(こせき)三英

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改訂新版 世界大百科事典 「小関三英」の意味・わかりやすい解説

小関三英 (こせきさんえい)
生没年:1787-1839(天明7-天保10)

江戸末期の蘭学者。名は好義,号は篤斎,三英は通称。出羽庄内藩の軽輩の子で,若いころ江戸に出て蘭医吉田長淑に学び,のち1832年(天保3)岸和田藩医に挙げられた。渡辺崋山と親しく,盟友の高野長英とともに崋山の蘭学研究を助けた。39年に蛮社の獄がおこると,三英は彼の身にも司直の手が及ぶことをおそれて自殺した。訳書に《泰西内科集成》《新撰地誌》等がある。
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小関三英 (おぜきさんえい)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小関三英」の意味・わかりやすい解説

小関三英
こせきさんえい

[生]天明7(1787).出羽,庄内
[没]天保10(1839).5.23. 江戸
江戸時代後期の蘭学者,蘭方医。名は好義,また三英,号は篤斎,別に鶴州ともいう。初め江戸に出て蘭学を学び,次に長崎の P.シーボルトの門に入り,高野長英と偶然同門になって深く相交わった。のち京都に出,文政9 (1826) 年『コンスブルックの内科書』の翻訳に従事し,『泰西内科集成』を編纂,これを要約して『西醫原病略』を刊行した。天保5 (34) 年幕府の天文台翻訳係となる。三英は生来虚弱な体質で,そのうえ足疾があり,活動的ではなかったが,渡辺崋山,高野長英らの志には加担するところあり,天保 10 (39) 年崋山,長英捕えられるの報に接し,みずからに罪状の及ぶ以前に頸動脈を切って自殺した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「小関三英」の解説

小関三英
こせきさんえい

1787.6.11~1839.5.17

江戸後期の蘭学者。出羽国鶴岡藩の軽輩の家に生まれる。藩校で漢学を学び,江戸にでて吉田長淑(ちょうしゅく)・馬場佐十郎に師事。1823年(文政6)仙台藩医学校教授となるが2年後辞職。のち出府し幕府医官桂川甫賢(ほけん)方に寄寓。蘭書翻訳に専念した。31年(天保2)渡辺崋山を知り,翌年岸和田藩医,35年には幕府天文方蛮書和解(ばんしょわげ)御用を命じられた。39年蛮社の獄がおきると,逮捕される前に自刃。翻訳「泰西内科集成」「卜那把盧的(ボナパルテ)戦記」「那波列翁(ナポレオン)伝初編」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小関三英」の解説

小関三英 こせき-さんえい

1787-1839 江戸時代後期の蘭学者,医師。
天明7年6月11日生まれ。吉田長淑(ちょうしゅく)に蘭学,医学をまなぶ。和泉(いずみ)岸和田藩医をへて,幕府天文方蘭書翻訳係となる。尚歯会で渡辺崋山(かざん),高野長英らとまじわる。天保(てんぽう)10年蛮社の獄に際し,自分にも罪がおよぶことをおそれ,同年5月17日自殺した。53歳。出羽(でわ)鶴岡(山形県)出身。名は貞義,好義。字(あざな)は仁里。通称ははじめ良蔵,貞吉。号は篤斎,鶴洲。訳書に「泰西内科集成」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「小関三英」の解説

小関三英
こせきさんえい

1787〜1839
江戸後期の蘭学者
出羽(山形県)鶴岡の人。長崎でシーボルトに学び,『泰西 (たいせい) 内科集成』を翻訳。のち幕府の天文方阿蘭陀 (オランダ) 書籍和解御用となった。尚歯会 (しようしかい) に加わり,高野長英・渡辺崋山らが蛮社の獄で捕らえられると,連坐を恐れて自殺した。

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367日誕生日大事典 「小関三英」の解説

小関三英 (こせきさんえい)

生年月日:1787年6月11日
江戸時代後期の蘭学者
1839年没

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世界大百科事典(旧版)内の小関三英の言及

【小関三英】より

…江戸末期の蘭学者。名は好義,号は篤斎,三英は通称。出羽庄内藩の軽輩の子で,若いころ江戸に出て蘭医吉田長淑に学び,のち1832年(天保3)岸和田藩医に挙げられた。渡辺崋山と親しく,盟友の高野長英とともに崋山の蘭学研究を助けた。39年に蛮社の獄がおこると,三英は彼の身にも司直の手が及ぶことをおそれて自殺した。訳書に《泰西内科集成》《新撰地誌》等がある。【佐藤 昌介】…

※「小関三英」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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