江戸後期の蘭方医(らんぽうい)、蘭学者。出羽(でわ)国鶴岡(つるおか)(山形県鶴岡市)に農家の二男として生まれる。初名弁介また貞橘。名は好義。篤斎また鶴州と号した。初め三栄と称し、1835年(天保6)ごろ三英に改めた。1804年(文化1)江戸に出て蘭方医吉田長淑(ちょうしゅく)(1779―1824)について医学・蘭学を学ぶ。1821年(文政4)鶴岡に帰って医を開業し、翌1822年仙台藩医学館蘭方科講師に招かれ、1823年の冬着任するが、まもなく辞任。1831年(天保2)江戸に出て、桂川甫賢(かつらがわほけん)(1797―1845)方に寄寓(きぐう)し、在京の蘭学者たちと交わり、渡辺崋山(かざん)を知った。1832年岸和田藩に仕官し藩医となる。江戸の赤坂溜池(ためいけ)山王隣の岸和田藩邸の長屋に居住。1833年天文台翻訳掛を命ぜられ、『厚生新編』の訳述事業に参加し、第60~70巻の訳述に従事した。また崋山、高野長英らとともに進歩的洋学者の団体尚歯会(しょうしかい)に属し、地理、歴史を講じて西洋事業研究の有力メンバーとなり、1835年天文台蘭書翻訳方を命ぜられた。1839年いわゆる「蛮社の獄」が起こり、崋山の入獄、長英の自首により、自分も罪を逃れることはできないと思い、同年(天保10)5月17日自刃した。53歳。コンスブルックG. W. Consbruch(1764―1837)の内科書を訳して『泰西内科集成』(全40巻)の大業をなし、また『西医原病略』『牛痘種法』『熱病総論』などの医書、さらに『那波列翁(ナポレオン)伝』やプリンセンP. J. Prinsen(1777―1854)の地誌を訳した『新撰(しんせん)地誌』など西洋史・地誌に関するものもある。青山(東京都港区)竜巖(りゅうげん)寺に葬られる。
[片桐一男]
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江戸末期の蘭学者。名は好義,号は篤斎,三英は通称。出羽庄内藩の軽輩の子で,若いころ江戸に出て蘭医吉田長淑に学び,のち1832年(天保3)岸和田藩医に挙げられた。渡辺崋山と親しく,盟友の高野長英とともに崋山の蘭学研究を助けた。39年に蛮社の獄がおこると,三英は彼の身にも司直の手が及ぶことをおそれて自殺した。訳書に《泰西内科集成》《新撰地誌》等がある。
執筆者:佐藤 昌介
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1787.6.11~1839.5.17
江戸後期の蘭学者。出羽国鶴岡藩の軽輩の家に生まれる。藩校で漢学を学び,江戸にでて吉田長淑(ちょうしゅく)・馬場佐十郎に師事。1823年(文政6)仙台藩医学校教授となるが2年後辞職。のち出府し幕府医官桂川甫賢(ほけん)方に寄寓。蘭書翻訳に専念した。31年(天保2)渡辺崋山を知り,翌年岸和田藩医,35年には幕府天文方蛮書和解(ばんしょわげ)御用を命じられた。39年蛮社の獄がおきると,逮捕される前に自刃。翻訳「泰西内科集成」「卜那把盧的(ボナパルテ)戦記」「那波列翁(ナポレオン)伝初編」。
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…江戸末期の蘭学者。名は好義,号は篤斎,三英は通称。出羽庄内藩の軽輩の子で,若いころ江戸に出て蘭医吉田長淑に学び,のち1832年(天保3)岸和田藩医に挙げられた。渡辺崋山と親しく,盟友の高野長英とともに崋山の蘭学研究を助けた。39年に蛮社の獄がおこると,三英は彼の身にも司直の手が及ぶことをおそれて自殺した。訳書に《泰西内科集成》《新撰地誌》等がある。【佐藤 昌介】…
※「小関三英」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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