小高村(読み)おだかむら

日本歴史地名大系 「小高村」の解説

小高村
おだかむら

[現在地名]小高町小高

現小高町域の北端部やや東側に位置する。村の南端で北東流してきた小高川は東流する支流のまえ川を合流、その後東流して南岸の南小高村との境をなす。東は大井おおい村、西は枝郷片草かたくさ村、北は丘陵を隔てて小木迫おぎさく(現原町市)。浜街道は同村と片草村の境をなし、南へ折れて当村西部を抜け、大行だいぎよう橋で前川を渡河して南小高村内の小高宿に至る。明暦二年(一六五六)に片草村、元禄一〇年(一六九七)に南小高村を分村(相馬藩政史)。天保郷帳では「古者 小高村・片草村弐ケ村」と注記されるが、南小高村をも含んでいたと考えられる。南北朝期以降、相馬氏惣領家の居城小高城があり、中世末期まで相馬氏の支配の拠点であった。

〔中世〕

文永九年(一二七二)一〇月二九日の関東下知状(相馬文書)によると、相馬胤村は「陸奥国行方(郡盤カ)崎・小高両村」などの所領の被相続人を未決のまま死去したが、同日胤村の後家尼(阿蓮)に安堵されている。なお年月日未詳の相馬胤村譲状案(同文書)には、後家分のうちの小高は闕所と注記されるが、同譲状案には検討の余地がある。正応二年(一二八九)二月二〇日の平某譲状(同文書)では、小高村などが松丸に譲られており、平某は胤村の五男師胤、松丸はその子息重胤とみられる。


小高村
おだかむら

[現在地名]玉川村小高

蛇行しながら北流する阿武隈川東岸の氾濫原と阿武隈高地西縁の丘陵地に位置し、南は西流する玉川(現在の泉郷川)を挟んで蒜生ひりゆう村・川辺かわべ村。永正二年(一五〇五)三月一二日の結城政朝寄進状(八槻文書)に「石川庄小高之内 賀茂宮之神田三斗蒔、此内沖に田一斗蒔あり、畠二まい、屋敷山有、年貢二貫文之所也」とあり、近津別当(現棚倉町八槻都々古別神社の別当)に寄進されている。応永五年(一三九八)四月二日と思われる石川道悦申状案(白河古事考)によると、二階堂三河守一族の小高貞光は道悦の所領石川庄金波かんなみ村を押領している。小高氏は初め石川氏の一族で、当地を本貫地としていたと考えられるが、熊野先達職についての文明一六年(一四八四)九月三日の乗々院御房御教書(八槻文書)に「奥州石河一家之内、赤坂・大寺・小高両三人之事、近年成白川之一姓、既改氏、被替家之文等」と記される。


小高村
こたかむら

[現在地名]燕市小高・日之出ひので

東流するなかくち川左岸にあり、佐渡さわたり村の西に連なる。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に「小鷹孫三郎分 大もの庄内小高村・同月岡村共ニ」とあり、「本ふ」「屋しき」「今度見出」「畠之見出」合計一七貫文、ほか「当不作」一千九〇〇苅が記される。慶長三年(一五九八)と推定される検地帳(土田照彦氏蔵)によれば田畑一五町五反余・分米一四〇石八斗余、うち田七町五反余(上田一町二反余・中田二町七反余・下田一町九反余・荒一町五反余)・分米九八石八斗余、畑八町余(上畑一町八反余・中畑三町六反余・下畑二町余・荒五反余)・分米四一石四斗余とある。


小高村
おだかむら

[現在地名]麻生町小高

霞ヶ浦東岸の台地上に位置し、北は井貝いがい村、南はみなみ村。小高の名は「常陸国風土記」に「郡の南七里に男高の里あり。古、佐伯、小高といふものありき。其のめる処なれば、因りて名づく」とあり、また南に海鯨が腹ばい臥せたという鯨岡くじらおか、大きい栗木にちなむ栗家くりやの池、北に香取社のあることが記される。

和名抄」にいう小高郷の本郷の地(新編常陸国誌)で、中世は大掾氏の一族行方為幹が行方村から移って小高氏を名乗った。


小高村
おだかむら

[現在地名]岬町東小高ひがしおだか

三門みかど村の西に位置する。鴨根かもね谷の中ほど、てらだいに四郭を設ける小高城の跡があり、城根じようねの地名を残す。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二六一石。慶長五年(一六〇〇)の大多喜藩領分高付帳(大木家文書)では高二三一石余。正保国絵図では高二六一石。寛文四年(一六六四)当時は武蔵国岩槻藩領(「阿部正春領知目録」寛文朱印留)。同一一年大多喜藩領となり(貞享元年「阿部正春領知目録」阿部家文書)、幕末まで同藩領。元禄郷帳では高二六七石余。元禄一六年(一七〇三)には田一四町六反余・畑九町五反余(うち屋敷四反余)で、年貢は米七二石余・永七貫二二四文(岡野家文書)


小高村
おだかむら

[現在地名]八日市場市小高

飯高いいだか村の北にあり、北はさか(現多古町)。天正二〇年(一五九二)一月二五日の松平家忠知行書立に小高郷五七石余とみえる。寛文四年(一六六四)の内田正衆領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、下野鹿沼藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一八三石余、幕府領と旗本浅井・堀領の三給。以後幕末まで同じ三給支配が続き、村高も変わらない。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では幕府領三石余・浅井領九三石余・堀領八五石余で、家数二八。坂村境の芝地をめぐって争論が起きたが、安永七年(一七七八)示談となり、芝地は今までどおり両村共有として境木を植え、互いに竹木は決して植えないこととした(多古町史)


小高村
おだかむら

[現在地名]新治村小高

北は東城寺とうじようじ村。村の北部は筑波山系の一部で、南部に耕地が広がるが、水利の便が悪いため多くの池が散在している。中世はやま庄に属したといわれる。元禄一二年(一六九九)土浦藩領となり(土浦市史)、「県方集覧」(酒井泉氏蔵)によれば、寛文七年(一六六七)検地が行われ、元禄郷帳の村高は二二二石余。「新編常陸国誌」によれば、東・西・南・北の四坪に分けられていた。


小高村
おだかむら

[現在地名]夷隅町小高

神置かみおき村の東に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一八二石。寛永二年(一六二五)知行宛行状で当村一八二石余が旗本伊沢領となる。村高および領主とも幕末まで同じ(旧高旧領取調帳)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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