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吉田東洋 よしだとうよう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

吉田東洋
よしだとうよう

[生]文化13(1816).土佐
[没]文久2(1862).4.8. 土佐
幕末の土佐藩士。藩政改革にあたる。 200石の馬廻役,吉田光四郎正清の4男。通称,元吉,正秋。天保 13 (1842) 年船奉行,翌年郡奉行,嘉永2 (49) 年閑居,静遠居と称した。安政4 (57) 年復職し,「新おこぜ組」と称する改革派の頭目として人材登用,藩権力による流通機構の掌握など藩政改革に力を尽したが,上士階級と藩内攘夷派志士らの反対を受け,下城の途中,那須信吾らに暗殺された。文久1 (61) 年『海南政典』を脱稿,彼の死後,清書された。原書は戦火に焼失したが,写本が残っており,幕末の土佐藩封建組織を知るための好資料。

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デジタル大辞泉の解説

よしだ‐とうよう〔‐トウヤウ〕【吉田東洋】

[1816~1862]幕末の土佐藩士。藩主山内豊信に登用され藩政改革に努めたが、保守派・尊攘派に暗殺された。

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百科事典マイペディアの解説

吉田東洋【よしだとうよう】

幕末の土佐藩士。正秋(まさあき)と名乗り,通称元吉(もときち)。1853年藩政改革に際して藩主山内豊信(とよしげ)(容堂)に起用されて手腕を発揮する一方,江戸で藤田東湖らと交わる。
→関連項目岩崎弥太郎高知藩武市瑞山山内容堂

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

吉田東洋 よしだ-とうよう

1816-1862 幕末の武士。
文化13年6月生まれ。土佐高知藩士。嘉永(かえい)6年参政(仕置役(しおきやく))に起用されるが,翌年免職。安政5年復職して後藤象二郎,板垣退助らを登用し,藩政改革を断行。その急激な改革は保守派はもとより,武市瑞山(たけち-ずいざん)ら尊攘(そんじょう)派の反対もうけ,文久2年4月8日土佐勤王党の那須信吾らに暗殺された。47歳。名は正秋。字(あざな)は子悦。通称は官兵衛,元吉。

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朝日日本歴史人物事典の解説

吉田東洋

没年:文久2.4.8(1862.5.6)
生年:文化13(1816)
幕末の土佐(高知)藩重臣。幼名は郁助,のち官兵衛,また元吉,実名は正秋,東洋と号した。若くより船奉行や郡奉行を経歴,嘉永6(1853)年,ペリー来航に際し,藩主山内豊信(容堂)より大監察に起用された。この年の暮れ参政(仕置役)に昇任,翌安政1(1854)年,参勤で江戸出府の藩主に随従,江戸では水戸藩重臣藤田東湖や儒者塩谷宕陰らの知遇を得たが,同年6月豊信主催の酒宴で不敬を演じ,免職帰国,格禄没収,城下外追放の処分を被り,高知城下の南郊長浜村に閉居した。そこで学塾少林塾を営み,義甥の後藤象二郎,福岡孝弟,野中助継,神山郡廉,間崎滄浪,岩崎弥太郎ら青年藩士を訓育。4年将軍継嗣問題が起こり豊信は一橋(徳川)慶喜擁立に関与,東洋の復帰を必要としたため,翌5年1月赦免されて参政に復職,豊信を補佐した。6月紀州派の井伊直弼が大老に就任して一橋党は敗北,豊信は6年2月隠居を余儀なくされた。江戸に閉居する容堂の信任を受けて東洋は藩政指導の衝に当たり,幕府の信頼回復,藩の実力養成に尽力。住吉陣営の構築,「海南政典」「海南律例」へと結実する藩法・藩制整備,さらに人材登用,教育制度の改革,海防配備の実施,殖産興業の展開等に尽力した。文久1(1861)年,武市瑞山ら郷士を主力とした土佐勤王党が成立,熱心に挙藩勤王運動の必要性を訴えたが,東洋は問題にしなかった。東洋の急激な藩政改革を快く思わぬ門閥層勢力と武市派がひそかに東洋排撃で提携。東洋は積極的な藩政改革推進の途次において勤王党の凶刃に倒れた。<著作>日本史籍協会編『吉田東洋遺稿』

(福地惇)

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世界大百科事典 第2版の解説

よしだとうよう【吉田東洋】

1816‐62(文化13‐文久2)
幕末の土佐藩士。正秋と名のり,元吉と称する。東洋は号。1841年(天保12)世禄200石馬廻格の家督を相続。53年(嘉永6)藩政改革に際し藩主山内豊信(容堂)の下で登用され,政局の中心となる。そのころ東洋を知った水戸の藤田東湖は,東洋の豊信補佐を〈悍馬に鞭を加える〉ものと評した。翌年から57年(安政4)まで蟄居(ちつきよ)を命ぜられたが,この間子弟の教育に努める。藩庁に復帰後,その育てた人材を登用するとともに開明的な改革を推進した。

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大辞林 第三版の解説

よしだとうよう【吉田東洋】

1816~1862) 幕末の土佐藩士。通称は元吉。藩主山内豊信に登用されて藩政改革を推進・断行したが、勤王党のために暗殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

吉田東洋
よしだとうよう
(1816―1862)

幕末期土佐藩における開明的な藩政改革指導者。元吉(もときち)と称し、正秋(まさあき)と名のる。後藤象二郎(しょうじろう)は義理の甥(おい)。兄の死により家督を継ぐ。世禄200石。1853年(嘉永6)ペリー来航の対外的危機のなかで、藩主山内豊信(とよしげ)に起用され、参政(仕置役)となり、藩政改革の中心となる。翌年、些細(ささい)なことから免職となり閑地に退き多くの子弟を教育。後藤象二郎、福岡孝弟(たかちか)をはじめ、間崎哲馬(まざきてつま)、岩崎弥太郎(やたろう)らその数は多い。しかし情勢の深刻化は東洋の才能を必要とし、57年(安政4)暮れに再起用が実現。安政(あんせい)の大獄の進行に対応しながら、佐幕開国の方針をとり、洋式海軍の創設を考えていた。また格式制度を改革し、門閥打破の方向を打ち出し、人材を抜擢(ばってき)し、後藤、福岡、乾(いぬい)(板垣)退助(たいすけ)らを起用した。しかし、その改革は守旧派はもとより、尊王攘夷(そんのうじょうい)を主張する武市瑞山(たけちずいざん)一派の反対を受け、文久(ぶんきゅう)2年4月8日夜、勤王(きんのう)党の刺客那須信吾(なすしんご)、安岡嘉助(やすおかかすけ)、大石団蔵(おおいしだんぞう)に暗殺された。[池田敬正]
『平尾道雄著『吉田東洋』(1959・吉川弘文館)』

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