小御所会議(読み)コゴショカイギ

デジタル大辞泉 「小御所会議」の意味・読み・例文・類語

こごしょ‐かいぎ〔‐クワイギ〕【小御所会議】

慶応3年12月9日(1868年1月3日)京都御所内の小御所で開かれた御前会議大政奉還後の徳川氏処分を討議し、徳川慶喜とくがわよしのぶに辞官納地を命ずることを決定した。

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精選版 日本国語大辞典 「小御所会議」の意味・読み・例文・類語

こごしょ‐かいぎ‥クヮイギ【小御所会議】

  1. こごしょ(小御所)の会議

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百科事典マイペディア 「小御所会議」の意味・わかりやすい解説

小御所会議【こごしょかいぎ】

大政奉還をうけて王政復古宣言が出された1867年(慶応3年)12月9日の夜,総裁・議定・参与の三職によって京都御所内小御所で開かれた御前会議。大政奉還で機先を制せられた岩倉具視大久保利通ら武力討幕派が徳川家の処分をめぐって山内豊信松平慶永ら公議政体論者をおさえて徳川慶喜官位辞退,所領返納を決定した。鳥羽・伏見の戦戊辰戦争の発端となる。
→関連項目倒幕運動

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改訂新版 世界大百科事典 「小御所会議」の意味・わかりやすい解説

小御所会議 (こごしょかいぎ)

1867年(慶応3)12月9日,王政復古が断行された夜,京都御所内の小御所で開催された御前会議。総裁・議定・参与と,王政復古に参加した諸藩の代表が,徳川家の処分をめぐって激論を展開した。列侯会議を開いて,それを新政府の柱としようとする,前土佐藩主山内豊信,前福井藩主松平慶永らの公議政体派は,当時二条城にいた内大臣徳川慶喜を朝議に参加させるべきだとし,幼少の天皇を擁した討幕派の専断をはげしく非難他方,岩倉具視や大久保利通ら討幕派は,慶喜の内大臣職辞退,徳川家領地の返上を主張,いれられなければ断固として追討すべきだと応酬した。しかし,天皇を手中におさめ,倒幕の密勅も偽造して,武力倒幕を決意していた討幕派の強硬な態度に,公議政体派も折れ,辞官納地を慶喜に通告するという処分の決定をみた。翌日,松平慶永と尾張藩主徳川慶勝が,慶喜に辞官納地の朝命を伝えた。慶喜はこれに回答しなかったが,王政復古に憤激する旧幕府軍・会津藩兵など約1万名が暴発することを恐れて,二条城を退去,大坂城に移った。この3週間後に,鳥羽・伏見で旧幕府軍と討幕軍が戦端を開く。大政奉還ののち,慶喜の処遇をめぐって,せめぎあいをつづけてきた討幕派と公議政体派の対立も,鳥羽・伏見の戦で慶喜が朝敵とされるに至り,討幕派の勝利で終わった。この後,新政府内では討幕派が主導権を確立し,戊辰戦争を指導した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小御所会議」の意味・わかりやすい解説

小御所会議
こごしょかいぎ

1867年(慶応3)12月9日、京都御所の小御所で開かれた御前会議。大政奉還後の徳川氏処分をめぐってのもので、王政復古政府最初の三職会議でもある。王政復古大号令が下るとともに、摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)ほか旧来の朝廷諸官職が廃止され、総裁、議定(ぎじょう)、参与の三職が設けられ、続いて徳川氏処分の会議が天皇臨席のもとに小御所で開かれた。会議には総裁有栖川宮(ありすがわのみや)、参与岩倉具視(ともみ)はじめ、徳川慶勝(よしかつ)(尾張(おわり))、松平慶永(よしなが)(越前(えちぜん))、浅野長勲(ながこと)(安芸(あき))、山内豊信(やまうちとよしげ)(土佐)、島津忠義(ただよし)(薩摩(さつま))の諸侯ほか、王政復古クーデターを陰で準備した大久保利通(としみち)、後藤象二郎(しょうじろう)らの諸藩士も陪席した。山内豊信、松平慶永ら公議政体派は、徳川慶喜(よしのぶ)の処分に反対したが、岩倉具視、大久保利通ら討幕派の主張と、西郷隆盛(たかもり)の裏工作に押し切られ、徳川氏に辞官と領地の返上を命ずることを決定。この後、幕府や公議政体派の巻き返しがあり、戊辰(ぼしん)戦争となった。

[佐々木克]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「小御所会議」の解説

小御所会議
こごしょかいぎ

1867年(慶応3)12月9日,王政復古の具体化のため京都御所の小御所で開かれた会議。王政復古の布達,朝廷の諸制度の全廃と摂政らの参内停止の命令,および三職の任命が行われたのち,夕刻から開始された。将軍徳川慶喜(よしのぶ)らを排除し天皇出席のもと,摂政二条斉敬(なりゆき)・朝彦親王らの朝廷首脳と,新任の三職ら特定の親王・公卿・大名・藩士のみが出席。王政復古のクーデタを仕掛けた大久保利通や岩倉具視(ともみ)ら武力倒幕派は徳川慶喜の降官納地を決定しようとしたが,山内豊信(とよしげ)・松平慶永(よしなが)ら公議政体派は慶喜の参内を要求し,両者の間に激論が交わされた。休憩の際に豊信らは妥協に踏み切り,徳川慶勝(よしかつ)と松平慶永が降官納地の周旋にあたることになった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小御所会議」の意味・わかりやすい解説

小御所会議
こごしょかいぎ

幕末,王政復古の直後,徳川氏処分問題をめぐって京都御所内の小御所で行われた会議をいう。王政復古のクーデターは薩摩藩を主軸とする討幕派の主導権によって行われたが,これにやむをえず加わった土佐,越前,尾張など諸藩は,徳川氏をも国政に加えた連合政権の樹立を意図していた。慶応3 (1867) 年 12月9日夜開かれた新政権樹立後の最初の首脳会議で,土佐藩主らは徳川慶喜の招聘を主張し,これに対し討幕派の公卿岩倉具視,薩摩藩士大久保一蔵らは「慶喜は失政の罪を謝するため,内大臣の官位を辞し,領地を朝廷に返上すべきである」と反駁して譲らず,論争の結果ついに辞官納地が決定した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「小御所会議」の解説

小御所会議
こごしょかいぎ

明治維新期,京都御所内の小御所で開かれた御前会議
1867(慶応3)年12月,大政奉還後の徳川氏の処分について論議が行われ,岩倉具視・大久保利通らの武力討幕派が幕府勢力を一掃するため,山内豊信 (とよしげ) ・松平慶永 (よしなが) らの公議政体派を抑えて,徳川慶喜 (よしのぶ) の官位辞退・所領返納(辞官納地)を決定。武力討幕の端緒となり,戊辰 (ぼしん) 戦争を誘発した。

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