山本玄峰(読み)やまもとげんぽう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本玄峰」の意味・わかりやすい解説

山本玄峰
やまもとげんぽう
(1866―1961)

明治~昭和期の臨済(りんざい)宗の僧。幼名は芳吉、諱(いみな)は宜詮(ぎせん)、号は般若窟(はんにゃくつ)。慶応(けいおう)2年1月28日、和歌山県東牟婁(むろ)郡四村(現、田辺(たなべ)市)に生まれる。幼くして捨てられていたのを拾われ、岡本家に養われる。19歳ころ眼病を患い、治癒祈願の四国遍路発願(ほつがん)する。25歳にして7回目の遍路途上、高知市雪蹊(せっけい)寺の門前に行き倒れていたのを、住職山本太玄(たいげん)(1826―1903)に救われ、翌年、太玄について得度した。滋賀県の永源寺(えいげんじ)、兵庫県の祥福寺(しょうふくじ)、岡山県の宝福寺(ほうふくじ)、岐阜県の永保寺(えいほうじ)など行脚(あんぎゃ)ののち、雪蹊寺に住したが、京都の円福寺にふたたび行脚し、見性宗般(けんしょうしゅうはん)(1848―1922)より法を嗣(つ)いだ。静岡県の龍沢寺(りゅうたくじ)および松蔭寺(しょういんじ)、長野県の正受庵(しょうじゅあん)、愛知県の瑞泉寺(ずいせんじ)などを復興し、1947年(昭和22)妙心寺派管長に就任した。昭和36年6月3日示寂。著書に『無門関提唱(むもんかんていしょう)』がある。

[伊藤秀憲 2017年10月19日]

『『無門関提唱』(1960/オンデマンド版・2015・大法輪閣)』『玉置弁吉編著『回想 山本玄峰』新装版(1986・春秋社)』『帯金充利著『再来――山本玄峰伝』(2002・大法輪閣)』

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20世紀日本人名事典 「山本玄峰」の解説

山本 玄峰
ヤマモト ゲンポウ

明治〜昭和期の僧侶 臨済宗妙心寺派管長。



生年
慶応2年1月28日(1866年)

没年
昭和36(1961)年6月3日

出生地
和歌山県湯峰

別名
別号=般若窟,幼名=芳吉

経歴
捨て子ともいわれ、岡本善蔵に拾われ、芳吉と名付けられた。明治16年眼病となり、17年結婚したが、失明宣告を受け20年妻を離縁して各地を放浪。23年7回目の四国遍路の途中、行き倒れとなり、高知県雪蹊寺の住職山本太玄に救われ得度した。24年雲水修行に出て滋賀県や兵庫県の禅寺で修行、28年岡山県宝福寺九峰につき、30年岐阜県虎渓山に掛錫し5年間留錫。34年太玄の養子となり山本姓となり36年雪蹊寺住職、41年京都府円福寺に入り見性宗般の印可を得た。大正3年宗般と図って静岡県三島の竜沢寺を再興、住職となり、次いで沼津松蔭寺、犬山瑞泉寺などを復興し、12年欧米、インドを巡歴。15年東京白山の竜雲院で月例の接心会を開いた。昭和11年新京に妙心寺別院を開いた。22年臨済宗妙心寺派管長に。池田勇人楢橋渡、升田幸三ら政、財界の帰依者が多かった。著書に「無門関提唱」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本玄峰」の解説

山本玄峰 やまもと-げんぽう

1866-1961 明治-昭和時代の僧。
慶応2年1月28日生まれ。臨済(りんざい)宗。四国遍路の途上,たおれていたのをすくわれ出家。見性宗般(けんしょう-しゅうはん)の法をつぎ,三島竜沢寺などを再興。昭和22年妙心寺派管長。昭和36年6月3日死去。95歳。紀伊(きい)湯峰(和歌山県)出身。名は宜詮。号は般若窟(はんにゃくつ)。著作に「無門関提唱」。
【格言など】旅に出る。着物を用意しろ(最期の言葉)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「山本玄峰」の解説

山本 玄峰 (やまもと げんぽう)

生年月日:1866年1月28日
明治時代-昭和時代の臨済宗妙心寺派僧侶。妙心寺派管長
1961年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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