山梨半造(読み)やまなしはんぞう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山梨半造」の意味・わかりやすい解説

山梨半造
やまなしはんぞう
(1864―1944)

陸軍軍人。元治(げんじ)元年3月神奈川県に生まれる。1886年(明治19)陸軍士官学校卒業、1892年陸軍大学校卒業。日清(にっしん)戦争に従軍後、参謀本部員、ドイツ駐在、陸大教官を経て、日露戦争には第二軍参謀として出征。戦後オーストリア公使館付武官、ドイツ大使館付武官、参謀本部総務部長などを歴任。1918年(大正7)陸軍次官、1921年6月原敬(はらたかし)内閣の陸相となり、高橋是清(たかはしこれきよ)、加藤友三郎内閣にも留任し、1922年第一次の陸軍軍縮山梨軍縮)を担当した。1925年陸軍大将で予備役となり、1927年(昭和2)朝鮮総督となったが、朝鮮総督府疑獄事件の責任を負って1929年退官した。昭和19年7月2日死去。

藤原 彰]

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「山梨半造」の解説

山梨 半造
ヤマナシ ハンゾウ


肩書
陸相

生年月日
元治1年3月1日(1864年)

出生地
相模国(神奈川県)

学歴
陸士(旧8期)〔明治19年〕卒 陸大〔明治25年〕卒

経歴
日清戦争に中尉で従軍、明治29年参謀本部員、31年軍事研究のためドイツ駐在、日露戦争には少佐、第2軍参謀として従軍。以後歩兵第51連隊長、44年少将、歩兵第30旅団長、参謀本部総務部長。大正3年第一次大戦には独立第18師団参謀として青島出征。5年中将、7年陸軍次官、10年高橋内閣の陸相、大将。12年軍事参議官、14年予備役。昭和2年朝鮮総督となるが、朝鮮疑獄事件に連座し、4年辞任した。

没年月日
昭和19年7月2日

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20世紀日本人名事典 「山梨半造」の解説

山梨 半造
ヤマナシ ハンゾウ

明治〜昭和期の陸軍大将 陸相。



生年
元治1年3月1日(1864年)

没年
昭和19(1944)年7月2日

出生地
相模国(神奈川県)

学歴〔年〕
陸士(旧8期)〔明治19年〕卒,陸大〔明治25年〕卒

経歴
日清戦争に中尉で従軍、明治29年参謀本部員、31年軍事研究のためドイツ駐在、日露戦争には少佐、第2軍参謀として従軍。以後歩兵第51連隊長、44年少将、歩兵第30旅団長、参謀本部総務部長。大正3年第一次大戦には独立第18師団参謀として青島出征。5年中将、7年陸軍次官、10年高橋内閣の陸相、大将。12年軍事参議官、14年予備役。昭和2年朝鮮総督となるが、朝鮮疑獄事件に連座し、4年辞任した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「山梨半造」の意味・わかりやすい解説

山梨半造 (やまなしはんぞう)
生没年:1864-1944(元治1-昭和19)

陸軍軍人。相模国出身。陸軍士官学校旧8期,陸軍大学校卒。日清・日露戦争に従軍,第1次世界大戦ではチンタオ攻囲軍の参謀長。田中義一系の軍人として知られ,1918年陸軍次官,21年原敬内閣の陸軍大臣に就任し,高橋是清・加藤友三郎の両内閣で留任。22年軍縮を求める世論におされて陸軍軍備整理(山梨軍縮)を実施した。この間大将に進む。27年朝鮮総督となったが,朝鮮総督府疑獄事件に連座。公判では無罪となったが,以後一切の公職から退いた。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「山梨半造」の解説

山梨半造

没年:昭和19.7.2(1944)
生年:元治1.3.1(1864.4.6)
主に大正期に活躍した陸軍軍人。神奈川県出身,山梨安兵衛の次男,妻は陸軍中将田村怡与造の娘。明治19(1886)年陸軍士官学校,25年陸軍大学校を優秀な成績で卒業,日清戦争では第2軍の副官,日露戦争では第2軍参謀,戦後は駐独,駐オーストリア大使館付。陸軍大臣(1921),関東大震災後の東京警備司令,朝鮮総督(1927)などを歴任した。長州閥の代表格田中義一と組んだのが幸いし,その後援を受けて出世したといわれる。現場の経験,参謀本部・陸大のキャリアも申し分ないが,シベリア出兵にからむ横領疑惑,朝鮮における汚職事件,人事行政の偏頗などは評判が悪い。暗い性格も多分に災いしていたようだ。<参考文献>松下芳男『近代日本軍人伝』

(田中宏巳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山梨半造」の意味・わかりやすい解説

山梨半造
やまなしはんぞう

[生]元治1(1864).3.10. 神奈川
[没]1944.7.2. 鎌倉
陸軍軍人。 1886年陸軍士官学校,92年陸軍大学校卒業。日清・日露戦争に従軍し,その後は陸軍大学校教官など多くの役職を歴任。第1次世界大戦では青島 (チンタオ) 攻囲軍参謀長として作戦指揮にあたった。 1918年陸軍次官,21年原敬内閣の陸相,同年大将。高橋是清,加藤友三郎の両内閣にも大臣として留任,23年9月辞任。関東大震災に際し,関東戒厳司令官兼東京警備司令官,辞任後 25年予備役編入。 27年朝鮮総督に任じられたが,29年病気で辞任。朝鮮疑獄事件に連座し,裁判で無罪となったが,その後は一切の公職を辞した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山梨半造」の解説

山梨半造
やまなしはんぞう

1864.3.1~1944.7.2

明治中期~昭和前期の陸軍軍人。相模国生れ。陸軍士官学校(旧8期)・陸軍大学校卒。日清・日露戦争に出征,第1次大戦では青島(チンタオ)攻略を指揮する。1922年(大正11)には加藤友三郎内閣の陸相として大戦後の軍縮を推進。関東大震災に際し関東戒厳司令官兼東京警備司令官に任じられる。27年(昭和2)朝鮮総督に就任するが朝鮮総督府疑獄に連坐,無罪となったものの公的生命を絶たれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山梨半造」の解説

山梨半造 やまなし-はんぞう

1864-1944 明治-昭和時代前期の軍人,政治家。
元治(げんじ)元年3月生まれ。大正10年原内閣の陸相となり,同年陸軍大将。高橋,加藤友三郎両内閣でも陸相をつとめ,軍縮をおこなう。昭和2年朝鮮総督となるが,疑獄事件で4年退任した。昭和19年7月2日死去。81歳。相模(さがみ)(神奈川県)出身。陸軍大学校卒。

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367日誕生日大事典 「山梨半造」の解説

山梨 半造 (やまなし はんぞう)

生年月日:1864年3月1日
明治時代-昭和時代の陸軍軍人。陸軍大臣
1944年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山梨半造の言及

【疑獄】より

…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…

※「山梨半造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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