山脇信徳(読み)ヤマワキ シントク

20世紀日本人名事典 「山脇信徳」の解説

山脇 信徳
ヤマワキ シントク

明治〜昭和期の洋画家



生年
明治19(1886)年2月11日

没年
昭和27(1952)年1月21日

出生地
高知県高知市八軒町

学歴〔年〕
東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科〔明治43年〕卒

主な受賞名〔年〕
文展3等賞(第3回)〔明治42年〕「停車場の朝」,院展樗牛賞「湖畔の冬」,高知県文化賞〔昭和26年〕

経歴
早くから印象派に傾倒。明治40年第1回文展に入選、42年第3回文展で「停車場の朝」が3等賞となり、画壇の注目を浴びる。45年滋賀県の膳所中学教師、大正11年満州へ渡り奉天中学教師。12〜15年春陽会会員。14年渡欧、昭和2年国画創作協会洋画部会員となり、国画会に作品を送る。4年帰国、晩年は高知で暮した。20年高知洋画家協会を創立。「白樺同人で、木下杢太郎との「絵画の約束」論争が有名。志賀直哉舟木重雄と親しかった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「山脇信徳」の意味・わかりやすい解説

山脇信徳【やまわきしんとく】

洋画家。高知県生れ。1910年東京美術学校卒。在学中第3回文展出品した《停車場の朝》で認められ,以後文展,院展受賞。のち,春陽会国画創作協会に出品。1925年―1929年滞欧後は郷里活躍印象派風の表現名声を博したが,晩年は東洋的画風に移った。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山脇信徳」の意味・わかりやすい解説

山脇信徳
やまわきのぶのり

[生]1886.2.11. 高知
[没]1952.1.21. 高知
洋画家。 1910年東京美術学校西洋画科卒業。在学中に第1回文展で『町の橋』 (1907) が入選,09年第3回文展で『停車場の朝』が3等賞となり,印象派の明快な画風をもって一躍世に認められた。卒業後は 17年まで滋賀県膳所中学校の教師をつとめ,その間文展に『午後の海』 (14) ,院展に『湖畔の冬』 (17) などを出品。院展洋画部や春陽会を経て国画創作協会会員となり,25~29年渡欧。帰国後は郷里高知市に住み中央画壇から遠ざかった。その他の主要作品『雨の夕べ』 (08,高知市立中央公民館) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山脇信徳」の解説

山脇信徳 やまわき-しんとく

1886-1952 明治-昭和時代の洋画家。
明治19年2月11日生まれ。42年文展に印象派風の「停車場の朝」を出品,絶賛される。大正12年春陽会会員。14年渡欧し,昭和4年の帰国後は郷里の高知県にすんだ。国画創作協会会員。昭和27年1月21日死去。65歳。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は信徳(のぶのり)。作品に「雨の夕」「午後の海」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山脇信徳」の意味・わかりやすい解説

山脇信徳
やまわきしんとく
(1886―1952)

洋画家。高知生まれ。1910年(明治43)東京美術学校西洋画科を卒業。その前年第3回文展で三等賞を受けた『停車場の朝』は、印象主義作風により一躍名をあげる。14年(大正3)文展出品の『午後の雨』は宮内省買上げ。春陽会の会員となり、国画創作協会洋画部に転じて会員となる。25~29年(昭和4)の渡欧後は高知市に隠退し、国画会展に出品を続けた。

[小倉忠夫]

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367日誕生日大事典 「山脇信徳」の解説

山脇 信徳 (やまわき しんとく)

生年月日:1886年2月11日
明治時代-昭和時代の洋画家
1952年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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