岐阜城跡(読み)ぎふじようあと

日本歴史地名大系 「岐阜城跡」の解説

岐阜城跡
ぎふじようあと

[現在地名]岐阜市金華山など

岐阜市街地の北東部に位置する金華きんか(比高約三〇八メートル)山頂にある城跡。織田信長が入城する前はくち城・稲葉山いなばやま城などともよばれた。山の北側を長良川が流れ、山頂からは尾張美濃の平野部の大部分を一望のもとに収める。建仁年中(一二〇一―〇四)に鎌倉幕府政所寄人・令を務めた二階堂行政が築城し、光資の代に稲葉氏を称したが、光房の時に勅勘により飛騨へ蟄居したという(土岐累代記)。室町時代になって守護代斎藤利長(永)が府城革手かわて城の支城とするために、永らく大破していた稲葉山城を再興して居城としたとされる(同書)。その後の城主については不明であるが、大永五年(一五二五)長井藤左衛門尉長弘らが起こした内乱の際、南麓にある瑞龍ずいりよう寺が稲葉山城攻撃に巻込まれて無住となっているので(「瑞龍寺紫衣輪番世代帳写」瑞龍寺蔵)、長井氏の敵斎藤氏の一族、おそらく守護代斎藤利隆が在城していたものと思われる。この内乱ののち城は長井氏のものとなり、のちには長井氏の家督を奪った斎藤道三の手に渡ったのであろう。

斎藤道三の出自については不明な点が多いが、道三の父西村新左衛門尉が長井弥二郎に仕えて頭角を現し、ついには長井氏を称するようになり、子の道三が長井氏の惣領を討ち殺し、長井惣領家の領地を奪ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「岐阜城跡」の解説

ぎふじょうあと【岐阜城跡】


岐阜県岐阜市金華山にある山城跡。稲葉山城、井ノ口城とも呼ばれ、山上城郭山麓の居館を中心に、標高329mの金華山全体を天然の要害として機能させたものだが、山頂部の平坦面は少なく、井戸雨水を蓄える程度のもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には不向きであったと考えられる。1201年(建仁1)、二階堂行政が山上に砦(とりで)を築いたのが始まりで、明確に城郭として使われたのは1539年(天文8)、守護代になっていた斎藤道三(どうさん)が、金華山山頂に城造りを始めて以降である。1567年(永禄10)、城を奪って新たに築城した織田信長は、町の名を岐阜と改め、9年間在城した。その間、「天下布武」の朱印を使用し、翌1568年(永禄11)には足利義昭を擁して京都に上るなど、ここを本拠に天下統一をめざした。信長が安土城に移った後も拠点的な城郭として機能していたが、関ヶ原の戦いにおいて当時の城主織田秀信(ひでのぶ)が西軍に属したことから、東軍の攻撃を受けて落城、その後、徳川家康によって廃された。山上部には尾根線上に戦国時代のものと考えられる石垣や井戸、人為的な平坦面などが確認され、山麓部では、巨石列とともに岩盤などの自然地形を利用して館への導入を図っていることや、大規模な造成によって4、5段以上の雛壇状の平坦面をつくりだしていること、庭園を設けていることなど、斎藤道三の城をベースに石造りの城を志向したことが明らかになった。信長居館跡からは土塁・石垣などが発見され、陶磁器や刀などが出土した。近世城郭の成立を考えるうえで重要な城跡として、2011年(平成23)に国の史跡に指定された。戦後、鉄筋コンクリート造りの復興天守と隅櫓(やぐら)(岐阜城資料館)が造られた。JR東海道本線ほか岐阜駅から岐阜バス「岐阜公園・歴史博物館前」下車、金華山ロープウェーと徒歩で約14分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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