日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡田啓介内閣」の意味・わかりやすい解説
岡田啓介内閣
おかだけいすけないかく
(1934.7.8~1936.3.9 昭和9~11)
帝人事件を契機として総辞職した斎藤実(さいとうまこと)内閣の後を受け、岡田啓介を首班として組閣された内閣。重臣会議による推挙という異例の方式で首相が決められたが、この方式は以後の先例となった。組閣に際しては、新官僚の後藤文夫、河田烈(かわたいさお)が組閣参謀を務めた。組閣工作は斎藤内閣同様「挙国一致」を目ざして行われたが、議会第一党の立憲政友会は鈴木喜三郎総裁の首相就任見送りへの反発から非協力の姿勢をとり、同党からの入閣者3人を除名処分にした。このため、岡田内閣は議会内に安定的な支持を形成できないまま、軍部と、内務大臣、大蔵大臣、書記官長の要職を占めた新官僚に依拠して政治運営にあたらざるをえなくなった。
内閣は、日中問題の解決を目ざす広田三原則の提示と恐慌対策を内外政策の中枢に据えた。さらに、内閣補強策として重要政策の審議・調査のために1935年(昭和10)5月に内閣審議会、内閣調査局の設置を行ったが、これは新官僚の影響力の増大にいっそう拍車をかけることとなった。軍部もこの内閣の下で政治への関与を強化していった。すなわち、陸軍は在満機関整備問題で一般行政に介入する端緒を開き、『国防の本義と其(その)強化の提唱』、いわゆる陸軍パンフレットの公表により、「国防国家」の構想を打ち出した。そして、これらの延長線上に、美濃部達吉(みのべたつきち)の天皇機関説を排撃する運動が軍部、右翼を中心としておこされたのである。議会第一党の野党立憲政友会はこの機をとらえて倒閣を策した。これに対し内閣は、美濃部達吉の著書を発禁とし、天皇機関説は国体に反するものであるという国体明徴声明を出した。こうした対応によって内閣はかろうじて事態を切り抜けたが、軍部の政治的比重はいっそう高まった。しかし軍部内部の対立も、1935年8月の永田鉄山(ながたてつざん)軍務局長殺害事件(相沢事件)に象徴的にみられるように激化の一途をたどり、政情はきわめて不安定であった。
内閣は1936年2月の総選挙に際して、政党に打撃を与えるために選挙粛正運動を展開した。この企図は成功し、野党で議会第一党の立憲政友会は惨敗、鈴木総裁も落選し、これにより内閣は議会内に安定的支持を得た。しかし、二・二六事件により内閣は総辞職した。後継内閣は難航のすえ、岡田内閣の外相広田弘毅(ひろたこうき)によって組織された。
[横関 至]
『我妻栄他編『日本政治裁判史録 昭和・後』(1970・第一法規出版)』▽『歴史学研究会編『太平洋戦争史 第2巻』(1971・青木書店)』▽『林茂・辻清明編『日本内閣史録3』(1981・第一法規出版)』