大正・昭和時代の海軍軍人、政治家。慶応(けいおう)4年1月20日若狭国(わかさのくに)(福井県)に生まれる。1889年(明治22)海軍兵学校卒業。海軍大学校を経て日清(にっしん)、日露の両戦争、第一次世界大戦に従軍。1924年(大正13)海軍大将となり、同年より1926年まで連合艦隊司令長官。1927年(昭和2)には田中義一(たなかぎいち)内閣の、ついで1932年には斎藤実(さいとうまこと)内閣の海軍大臣として入閣。1934年に内閣総理大臣に任命された。1936年の二・二六事件で襲撃され、同郷人で義弟の松尾伝蔵大佐の身代りによりからくも難を逃れたが、内閣は総辞職した。その後謹慎していたが、1937年4月前官礼遇となり重臣の列に加わった。日米開戦には消極的姿勢を示し、開戦後は東条英機(とうじょうひでき)内閣打倒運動の中心となった。鈴木貫太郎内閣の書記官長迫水久常(さこみずひさつね)は女婿である。昭和27年10月17日死去。
[横関 至]
『馬場恒吾著『政界人物評論』(1935・中央公論社)』▽『岡田啓介述『岡田啓介回顧録』(1950・毎日新聞社)』▽『岡田大将記録編纂会編・刊『岡田啓介』(1956・非売品)』▽『仙石進著『巨木は揺れた――岡田啓介の生涯』(1994・近代文芸社)』▽『上坂紀夫著『宰相岡田啓介の生涯――2・26事件から終戦工作』(2001・東京新聞出版局)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書22 岡田啓介』(2006・ゆまに書房)』▽『岡田啓介著、岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』改版(中公文庫)』
満州事変前夜から敗戦まで海軍長老,首相,重臣として海軍を背景に調停的役割を果たした軍人政治家。福井藩士の出身。海軍兵学校(15期),海軍大学校を卒業し日清戦争に参加。第1次世界大戦中より海軍中央部の要職を歴任し1923年次官,24年大将となる。田中義一内閣の海相となったのちロンドン軍縮会議では浜口雄幸内閣と海軍との間を斡旋して条約成立にこぎつけ,元老西園寺公望の信任を得た。次いで斎藤実内閣の海相となったが,33年退任,後備役。翌年同内閣が倒れると,組閣を命じられ,新官僚を中心に中間内閣を組織したが,軍部の攻勢を抑えることができず,ワシントン条約廃棄,天皇機関説問題,華北工作などで譲歩を重ねた。二・二六事件では襲撃をうけ危うく助かったが,内閣は総辞職した。首相前官礼遇をうけ重臣として米内光政内閣以降の首相候補の選定にかかわった。太平洋戦争の戦局が悪化すると,重臣と海軍のつなぎ役として東条英機内閣打倒工作を推進し,次の小磯国昭内閣では米内が現役に復帰して海相となった。次いで同内閣が倒れて鈴木貫太郎が首相となるとその組閣を援助し,女婿の迫水久常を書記官長にするなど,終戦工作の一つの柱となった。
執筆者:今井 清一
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明治〜昭和期の海軍大将,政治家 連合艦隊長官;海相;首相。
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1868.1.21~1952.10.17
明治~昭和期の海軍軍人・政治家。福井県出身。海軍大学校卒。日清・日露戦争に従軍。海軍省ほか軍政系の要職を歴任。1924年(大正13)大将。連合艦隊司令長官をへて27年(昭和2)田中義一内閣の海相となる。30年のロンドン海軍軍縮会議に際しては海軍部内をまとめて条約締結に寄与した。32年斎藤内閣の海相辞任後,34年に元老西園寺公望(きんもち)の期待を担い現状維持を目的とする中間内閣を組織したが,陸軍・右翼勢力からの攻撃に苦慮。36年の2・26事件では難を逃れたが内閣総辞職。その後,重臣として対米開戦に反対。第2次大戦末期には戦局収拾をはかって東条内閣の退陣を進め,鈴木終戦内閣を支えた。
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