江戸初期の儒家神道(しんとう)家。「きっかわ」とも読み、名は「これたる」ともいう。吉川神道を樹立。江戸の商家に元和(げんな)2年2月28日生まれる。本名尼崎屋五郎左衛門。和歌、読書を好み、36歳で鎌倉に住し、古典、神道書を考究、39歳で再度京都吉田家を訪ねてついに吉田神道の奥義を受ける。諸侯に請われ神道を講じ、52歳で4代将軍徳川家綱(とくがわいえつな)に謁見、のち山崎闇斎(やまざきあんさい)が入門、67歳で5代将軍綱吉(つなよし)に招かれ、幕府神道方に任ぜられる(正式の出仕は子の従長(よりなが)からという)。諸侯のなかで会津の保科正之(ほしなまさゆき)との交流は深く、正之が没した際、霊社号を授けて神葬祭を行ったことは有名である。惟足の所説の特色は、吉田神道の影響下にその仏教色を強く排除し、独自の朱子学的理念教養を加え、儒家神道の一典型をなしたこと、また吉田家および自家の奥義秘伝書を重視し、多く伝えたことにある。著書に『神道大意註』他がある。元禄(げんろく)7年11月16日没。79歳。
[小笠原春夫 2016年7月19日]
『平重道著『近世日本思想史研究』(1969・吉川弘文館)』
江戸前期の神道家。姓は〈きっかわ〉ともよむ。本名尼崎屋五郎左衛門。父は近江国出身の武士であったが,惟足は商家に養子として育ち,家は江戸日本橋の魚商であった。幼少より和歌読書に志あり,1651年(慶安4)家業を捨てて相州鎌倉に幽居,翌年生母を泉州堺にみまい,帰途京都に至り歌学を烏丸光広に問い,53年(承応2)さらに神道研究に志し侍従萩原(卜部)兼従(かねつぐ)(1588-1660)に師事,56年(明暦2)兼従より神道道統授与の証明を与えられて,吉田神道の道統は吉田家を離れ市井の神道家惟足に継受された。その後惟足は江戸に居を定めて吉田神道の教理講説に努め,57年紀州藩主徳川頼宣に神道を説き,61年(寛文1)会津藩主保科正之もこれを招いて教説を聞いた。当時正之は儒教を講書させていたが,儒臣服部安休に命じて神道を就学させた。正之の推挙により67年7月惟足は将軍家綱に謁し,82年(天和2)には神道方として幕班に列せられた。その後京都の吉田家との間には返伝授のことで種々問題があり,結局彼は神道の秘伝をその子従長に伝えて没した。著書に《神道大意講談》《神道大意註》《神代巻惟足抄》《神代巻家伝聞書》等がある。
執筆者:平 重道
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(白山芳太郎)
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1616.2.28~94.11.16
姓は「きっかわ」,名は「これたる」とも。江戸前期の神道家。吉川神道の創始者。初名は元成で惟足・従時(よりとき)と改名,尼崎屋五郎左衛門と称し,号は視吾堂(あれみのや)・相山隠士。武士の家系の出身で,江戸日本橋の商家に養子に入って家業をついだが,業績が芳しくなく鎌倉に隠居。1653年(承応2)萩原兼従(かねより)に入門し,唯一神道の口伝(くでん)を伝授されて江戸で一派を開き,将軍徳川家綱や会津藩主保科正之らに講説を行った。著書「神代巻惟足抄」「中臣祓聞書(なかとみのはらえききがき)」。
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…江戸前期の神道家吉川惟足(これたり)によって提唱された神道。惟足が萩原兼従から道統伝授された吉田神道によりながら,その儒仏神三教包摂的な思想に対し,仏教的要素を除いて,儒学とくに宋学理論の重視を説き,みずから理学神道と称した。…
※「吉川惟足」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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