京都の機業家。現在の株式会社川島織物セルコンの創始者。京都に生まれ、呉服悉皆(しっかい)商であった父・初代甚兵衛の薫陶を受け、若くして国内各地の養蚕・製糸・精練・染色などを研究した。1879年(明治12)父の没後2世甚兵衛を称し、父の遺志を継いで朝鮮産の生糸の精練・染色・加工などに工夫を加えてその実をあげた。ついで丹後縮緬(たんごちりめん)の改良に着手し、各種の新技法を開発して、川島式縮緬機として国の内外に喧伝(けんでん)されるに至った。彼は、その発明した織法が広く業界で模倣されることをいささかも意に介せず、自らは西陣(にしじん)本来の美術織物の大成に志し、朱珍(しゅちん)、風通織(ふうつうおり)、唐織(からおり)などに創意工夫を加えて、次々に優れた西陣織物をつくりだしていったが、とくに日本古来の綴織(つづれおり)の技術をもって、西欧のタペストリーに匹敵する大作の製作を目ざして、1886年3月フランスに渡り、ゴブラン織を中心に研究し、翌年に帰朝した。その後は1890年の第3回関西勧業博覧会に出品された『犬追物図』(宮内省買上げ)に続いて、次々に綴織の大作をつくっていった。その数は、58歳で没するまでに、今日傑作として知られているものだけで二十数点に及ぶであろうといわれる。
彼がその生涯をかけて製作した傑作は、主として壁掛け、壁張りといった室内装飾品であったこと、いずれも縦・横2メートル以上に及ぶ大作であったこと、とくに宮内省の買上げ品が多かったことなどを特徴とし、その大部分が第二次世界大戦の空襲を受け、建物と運命をともにしてしまったことは、まことに惜しい。しかし彼によって完成された大型な綴織の技術が、今日世界に類のない日本の劇場の緞帳(どんちょう)や、皇居の新宮殿のような大建築の内装などにその伝統を伝えていることは、大きな功績というべきであろう。なお、その傑作のおもなものは、1895年(明治28)の『悲母観音図』(第4回内国勧業博覧会出品、宮内省買上げ、東京国立博物館蔵)、1910年(明治43)の『雲鶴図』(浅野総一郎邸天井張り)である。
[山辺知行]
(松本貴典)
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昭和期の実業家,織物業者 川島甚兵衛商店社長・会長。
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…明治に入り紋屋次郎兵衛が製作した祇園占出山の〈日本三景図〉には,なお明・清様の技法が認められる。しかし1886年京都の2代川島甚兵衛(1853‐1910)の渡欧は,日本にゴブラン織の新しい息吹を伝えるものとなった。その後,川島の綴の万国博覧会への出品,皇室の買上げなどによって,しだいに日本にも工芸織物としての綴が定着してきた。…
※「川島甚兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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