川村 清雄
カワムラ キヨオ
明治〜昭和期の洋画家
- 生年
- 嘉永5年4月26日(1852年)
- 没年
- 昭和9(1934)年5月16日
- 出生地
- 江戸・麴町(東京都千代田区)
- 別名
- 幼名=清次郎,号=時童
- 経歴
- 初め日本画を学ぶが、明治初年より川上冬崖などに洋画を学ぶ。4年渡米し、フランスを経てイタリアに行き、ベネチア美術学校に学んで14年帰国。麴町中六番町に画学校を設立、廃校後は自宅で門弟を指導した。22年明治美術会の結成に参加し、35年巴会を結成。尾崎紅葉の「金色夜叉」中篇をはじめ、多くの文学書の挿絵もした。平成6年没後初の本格的な回顧展が開かれた。代表作に「かたみの直垂」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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川村清雄
かわむらきよお
[生]嘉永5(1852).4.26. 江戸
[没]1934.5.16. 天理
洋画家。文久1 (1861) 年大坂で田能村直入に日本画を習い,次いで江戸に帰って川上冬崖らに油絵を学んだ。明治4 (1871) 年法律の勉強のため渡米したが,のち画家になる決心を固め,フランスを経てイタリアに行き,1875年ベネチアの美術学校に入学,百武兼行を知る。 1881年帰国,画塾を開くとともに 1889年,明治美術会の創立に参加し会員となる。同会解散後は太平洋画会に加わらず,1902年トモエ会を結成。主要作品『少女像』 (1877頃,東京文化財研究所) ,『虫干図』 (東京国立博物館) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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川村清雄【かわむらきよお】
洋画家。号は時童。江戸の人。開成所で川上冬崖に洋画を学び,1871年―1881年欧米に留学。1889年明治美術会の創立に参加,同会解散後1902年巴会を結成。晩年画風は日本画に近くなり,文展開設以後画壇から遠ざかった。
→関連項目織田一磨
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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川村清雄
没年:昭和9.5.16(1934)
生年:嘉永5.4.26(1852.6.13)
明治期の洋画家。江戸生まれ。号に時童。文久3(1863)年開成所で英語を,のち絵を川上冬崖らに学ぶ。明治4(1871)年徳川宗家給費生として渡米,6年パリへ転じ,ド・カリアスに油絵を学ぶ。翌年ベネチアへ移り美術学校に入学した。留学中の作品に「少女」などがあり,すでに練達の筆致を示した。14年帰国し一時大蔵省印刷局に勤務したのち,自宅で東城鉦太郎ら門弟を指導する。明治美術会創立に参加したが,同会解散後門下を中心とした巴会の結成に加わる。帰国後の作品に「かたみの直垂」(東京国立博物館蔵)などがあり,後半は日本的傾向を強めた。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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川村清雄
かわむらきよお
(1852―1934)
洋画家。江戸生まれ。号時童。幼少のころ住吉(すみよし)内記に入門し、さらに、大坂で田能村直入(たのむらちょくにゅう)につき南画を学ぶ。江戸に戻り、1868年(明治1)ころから開成所で川上冬崖(とうがい)に洋画を習う。71年政治・法律の研究に渡米し、洋画に転じてフランスからイタリアへ行き、ベネチア美術学校に学ぶ。81年帰国して大蔵省印刷局に勤めたのち、画塾を開く。明治美術会の創立に参加して会員となり、のち同志と巴(ともえ)会を結成した。作風は『虫干図』にみるように、しだいに日本趣味に傾いていった。
[小倉忠夫]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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川村清雄 かわむら-きよお
1852-1934 明治-昭和時代前期の洋画家。
嘉永(かえい)5年4月26日生まれ。田能村直入(たのむら-ちょくにゅう)に文人画を,ついで開成所の川上冬崖(とうがい)に洋画をならう。ベネチア美術学校でまなび,帰国後,画塾をひらく。明治22年明治美術会の創立に参加,35年巴(ともえ)会を結成。昭和9年5月16日死去。83歳。江戸出身。号は時童。作品に「少女」「虫干」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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川村 清雄 (かわむら きよお)
生年月日:1852年4月26日
明治時代-昭和時代の洋画家
1934年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の川村清雄の言及
【明治・大正時代美術】より
…彼らは1889年浅井忠,小山正太郎,本多錦吉郎(きんきちろう)(1850‐1921。国沢新九郎の彰技堂に学んだ),曾山幸彦(そやまさちひこ)(1859‐92),川村清雄(きよお)(1852‐1934)らと最初の洋画家の団体である[明治美術会]を結成,展覧会を開いて洋画の積極的な啓蒙活動がくりひろげられることになる。このなかでは[浅井忠]がフォンタネージの画風をよく生かして,《春畝》(1889)や《収穫》(1890)のように田園風物詩的なすぐれた作品を生んで傑出している。…
※「川村清雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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