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江戸時代末~明治期の洋画家,南画家。信濃松代藩領(現,長野市)に生まれる。幼名山岸斧松,後に万之丞,寛を名のる。17歳で江戸に出て,上野東叡院に仕えるが,四条派の画家大西椿年に会い,画家を志す。1851年(嘉永4)御家人川上仙之助の養子となり,56年(安政3)蕃書調所に出仕し,画学局の設置とともにその絵図出役となり,高橋由一をはじめ明治初期に活躍する洋画関係者を指導する。画学局時代の仕事として知られているものに,横山由清訳《魯敏遜漂行紀略》の挿絵があり,これは洋風挿絵の嚆矢(こうし)とも言われている。65年(慶応1)の長州征戦には製図技術者として従い,維新後には沼津兵学校に西周とともに絵図方として招かれる。69年(明治2)私塾聴香読画館を開設して後進の育成をはかる一方,大学南校,陸軍士官学校などで図画教授の職に就き,英書の翻訳《西画指南》や《写景法範》6巻などの技法書を刊行。西洋画法の啓蒙に努める。自らは南画家として多くの作品を残すが,確証できる油絵の作品はない。参謀本部の重要地図紛失事件の際,その責任をとって,熱海の客舎で自殺した。
執筆者:酒井 忠康
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明治初期の文人画家、また洋風画の先覚者。信濃(しなの)国松代(まつしろ)領福島新田村(長野県上水内(かみみのち)郡)山岸瀬左衛門の二男として文政(ぶんせい)10年6月11日に生まれる。幼名を斧松(おのまつ)(あるいは尾之松と記す)と称し、長じて萬之丞、のち寛と改める。18歳のとき江戸に出て、上野東叡院にとどまっていたが、たまたま来訪した四条派の画家大西椿年(ちんねん)を知り、彼に師事した。1851年(嘉永4)幕府の家臣川上仙之助の養嗣子(ようしし)となり、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に入り蘭学(らんがく)の研鑽(けんさん)に努めた。またその画才を認められて西洋画法の研究にあたり、のち画学局が置かれるとその筆頭になった。68年(明治1)創立された沼津兵学校の絵図方として図画の指導を担当、のち大学南校の図画御用掛を命ぜられた。71年下谷(したや)御徒町(おかちまち)に画塾聴香読画館を開いて西洋画を教え、門下から小山(こやま)正太郎、松岡寿(ひさし)、高橋由一(ゆいち)らが輩出し、明治の洋画発展に大きく貢献した。彼が大学南校より刊行した『西画指南』は、主として英人ロベルト・スコットボルンの著書によったもので、西洋画指導に大きな役割を果たした。明治14年5月3日没。
[永井信一]
(三輪英夫)
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…しかし,1876年創設の工部美術学校が短期間で閉校となったのち,官設の東京美術学校が89年に開校されるまでの明治前半期には,一連の私画塾が画学校の役割を果たした。川上冬崖,高橋由一の2人の洋画家はその先駆をなす。ともに幕府の開成所(蕃書調所の後身)画学局に学んだが,西洋画研究機関であったこの画学局は,明治期の画学校の前身ともみることができる。…
…1811年(文化8)蘭書の翻訳機関として蛮書和解御用(ばんしよわげごよう)が置かれる。56年(安政3)蕃書調所と改称し,翌年から川上冬崖が,ここで正式に西洋画の研究に着手することになる。冬崖は,61年(文久1)に画学局に拡大された西洋画研究の唯一の公的機関で,画学出役として指導者となった。…
※「川上冬崖」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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