出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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松岡 寿
マツオカ ヒサシ
明治〜昭和期の洋画家
- 生年
- 文久2年2月5日(1862年)
- 没年
- 昭和19(1944)年4月28日
- 出身地
- 岡山県
- 学歴〔年〕
- 工部美術学校〔明治11年〕中退,国立ローマ美術学校〔明治20年〕卒
- 経歴
- 明治5年上京、川上冬崖に西洋画を学び、工部美術学校でフォンタネージに師事。13年ローマ留学、20年パリに移り、21年帰国。22年明治美術会結成、「父の像」など発表。内国博覧会鑑審査官、文展の審査員を務め、25年工科大学講師、39年東京高工教授、大正3年東京美術学校教授兼任、10年東京高工校長。代表作は「凱旋門」「伊太利ベルサリエーレの歩哨」「海老名弾正氏肖像」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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松岡寿
まつおかひさし
[生]文久2(1862).2.5. 岡山
[没]1944.4.28. 逗子
洋画家。 1873年川上冬崖の聴香読画館に学び,76年開校の工部美術学校に入り A.フォンタネージの指導を受けた。 78年十一字会を組織,80年イタリアに留学,ローマ美術学校に学ぶ。 88年帰国。初期にはバルビゾン派風の自然主義的な画法を示し,留学後はイタリア官学風の堅実な手法に移った。 89年浅井忠らと明治美術会を結成,92年明治美術学校を設立。さらに東京帝国大学工学部講師,東京美術学校教授,東京高等工芸学校教授,同校長,文展審査員などを歴任。美術教育家,美術行政家としての功績も大きい。主要作品『ローマ,コンスタンティヌス凱旋門』 (1882,東京芸術大学) ,『ベルサリエーレの歩哨』 (86,宮内庁) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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松岡寿
まつおかひさし
(1862―1944)
洋画家。岡山市生まれ。1872年(明治5)父とともに上京し、翌年川上冬崖(とうがい)の聴香読画館に入り、76年工部美術学校に入学してフォンタネージの指導を受ける。80~88年渡欧してローマでC・マッカリに師事し、ローマ国立美術学校を卒業する。帰国の翌年同志と明治美術会を創立。各種の博覧会審査官、文展の審査員を務める。また工科大学ほかの講師、東京高等工業学校・東京美術学校の教授、そして東京高等工芸学校校長などを歴任し、美術教育ならびに美術行政面で大きな功績をあげた。代表作に『ローマ、コンスタンチンの凱旋(がいせん)門』『伊太利ベルサリエーレの歩哨(ほしょう)』『海老名弾正(えびなだんじょう)氏肖像』がある。
[小倉忠夫]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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松岡寿 まつおか-ひさし
1862-1944 明治-昭和時代前期の洋画家。
文久2年2月5日生まれ。備前岡山藩士松岡隣の次男。工部美術学校でフォンタネージに師事。明治20年国立ローマ美術学校を卒業。帰国後,明治美術会の創立にくわわる。東京高等工業教授,東京美術学校教授,東京高等工芸校長を歴任。昭和19年4月28日死去。83歳。代表作に「伊太利ベルサリエーレの歩哨(ほしょう)」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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松岡 寿 (まつおか ひさし)
生年月日:1862年2月5日
明治時代-昭和時代の洋画家;美術教育家。東京高等工芸校長
1944年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の松岡寿の言及
【明治・大正時代美術】より
…一方,高橋の師川上冬崖や,横山松三郎(1838‐84),国沢新九郎(1847‐77)らも画塾を開いて,洋画研究の道を進めている([画学校])。 日本で最初の正則の西洋画教育を行った工部美術学校からは,フォンタネージの薫陶のもとに浅井忠,五姓田(ごせだ)義松,小山正太郎,松岡寿(ひさし)(1862‐1943),山本芳翠,中丸精十郎(1841‐96),高橋(柳)源吉(1858‐1913)ら明治中期を代表する洋画家が育った。フォンタネージはバルビゾン派の影響を受けた,イタリアでは一流の画家で,工部美術学校でもその画技と人格を敬愛されたが,78年脚気を病んでイタリアに帰る。…
※「松岡寿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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