江戸時代の彫物の名人と伝えられる人物。日光東照宮の眠り猫,東京上野東照宮の竜など,甚五郎作と伝えられる彫物は全国に多数ある。竜の彫物が毎夜池におりて水を飲んだなど,甚五郎あるいはその作品にまつわる伝説は多く,講談,歌舞伎,落語などにとりあげられている。しかし作品の量の多さや江戸初期から末期にわたる伝承の内容から考えて,実在したと仮定すると何人もの甚五郎がいたことになる。
黒川道祐の《遠碧軒記》には,〈左の甚五郎と云(いう)もの〉が〈左の手にて細工を上手に〉し,京都の北野神社の透彫や豊国神社の竜の彫物がその作品だと書かれており,この時代にすでに甚五郎の存在を語る伝承があったことが判明する。また,四国高松の生駒家の分限帳(1633年(寛永10)ころおよび39年の2種)に大工頭の甚五郎の名前が記録されており,その存在は認められよう。しかし左姓とは認められず,禁裏大工棟梁を勤めたとする点も裏付けられない。また甚五郎の墓も古くまでさかのぼるものではない。このように〈左甚五郎〉は,伝説上の人物と考えるほうがよいようだ。江戸中期以降,神社などに彫物を多用することが流行したが,江戸の庶民はその中の優れた作品を左腕一本の優れた技量で封建社会を自由に生きた甚五郎に結び付けることによって,ひとりの英雄を生みだし,全国に甚五郎伝説が広まっていったと考えられる。
執筆者:西 和夫
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(西和夫)
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生没年不詳。江戸初期の大工、彫物(ほりもの)師。播州(ばんしゅう)明石(あかし)(兵庫県)に生まれる。姓は伊丹(いたみ)、名は利勝(としかつ)。京都で禁裏大工与平次について修業後、江戸に出て徳川家の愛顧を受けたと伝える。京都方広寺の鐘楼、日光東照宮、東京・芝の台徳院廟(びょう)、上野寛永(かんえい)寺の造営などに携わり、建築彫刻に妙技を振るい、名声を得たという。日光東照宮の「眠猫(ねむりねこ)」をはじめ、各地にその作と称するものが伝えられているが、その高名は講談により広く流布したものである。彫刻を多用する近世社寺建築を生み出した大工像の典型の1人であるが、実在したか否かはさだかでない。
[天田起雄]
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… 各地に伝わる河童起源譚のうちで,最も広く流布しているのが,人造人間説である。たとえば天草地方に伝わる話では,左甚五郎が城を造る際,期限内の完成が危ぶまれたので,多くの藁人形を作って生命を吹き込み,その加勢を得てめでたく完成したが,その藁人形の始末に困り,川に捨てようとしたところ,人形たちが,これからさき何を食べたらよいか,と問うたので,甚五郎は〈人の尻を食え〉と言った。それが河童となったという。…
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