平安京の条坊間の街路を宅地・耕地化したものをいう。平安京には幅10mを超える程度の小路から80mを超える朱雀大路にいたるまでさまざまな街路があった。しかし街路としての利用度は低く,朱雀大路では牛馬が放し飼いにされ,一般の街路の側溝でもセリやハスなどを植えて道幅が削られていた。路上に臨時の小屋を建てる場合もあったが,いずれも永続的ではなかった。しかし11世紀後半になると,条坊内部の土地と区別された巷所が出現する。政府は道路を管理する京職(きようしき)に命じて巷所を禁止する方針をとっており,初期の巷所,特に小規模のものは不安定であった。しかし巷所はますます増大し,13世紀末から14世紀初めごろに,政府は巷所禁止の原則を放棄した。これまで巷所を禁止する立場にあった京職が巷所の本所となってその存在を保証したのである。右京では右京職(中御門家)が,左京では左京職(坊城家)がそれぞれ巷所の本所となっている。これらの巷所を地域的にみると,右京や左京南部の巷所は土地が低湿であったため,田畠や藺(い)田として利用される場合が多い。そのため京職に対する本所役も茣蓙筵(ござむしろ)の形態をとる。それに対して左京でも市街地化が進んでいる地域では,条坊内部の土地の延長として,宅地に利用されることが多い。またその存在形態も,都市住民の小規模な開発に基づいたものは細かく分割して所持されるのに対して,八条~九条・堀川~朱雀の地域の全巷所を確保し,その年貢地子を寺院の造営,修理にあてた東寺のような例もある。このように巷所の実態は多様であり,その性格を一律に論じることはできないが,平安京が古代的都城から中世的な都市へと変貌してゆくなかで,必要以上の幅を持った街路を効率的に利用しようとした点で共通している。巷所が消滅するのは16世紀末のことである。全国を統一した豊臣秀吉は,お土居の建設,町割の実施など京都の大改造を行った。その際に巷所は条坊内部の土地と同質化され,単に地名としてのみ名を残すことになった。
→平安京
執筆者:馬田 綾子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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