市之瀬村
いちのせむら
[現在地名]上石津町一之瀬
牧田村の南、牧田川の中流域に立地。南の同川上流には多良の各村がある。村の東部は養老山地の笙ヶ岳の北西山腹にあたる。暦応元年(一三三八)一一月の足利尊氏宛行状写(栃木県庁採集文書)に「石津郡高須・沢田・一之瀬等地頭職之事」とみえ、土豪の氏家重国に当地の地頭職を宛行っている。「新撰美濃志」は当地を「むかしより牧田庄といひしにや」と記す。慶長一四年(一六〇九)大久保長安による検地が行われ、検地帳(町役場一之瀬支所保管)七冊によると田畑三五町五反余、屋敷数八〇を数えた。このほかに畑地ばかりの五六筆を記す一冊があり、一町一反余。旗本日根野左京領。慶長郷帳では高二九二石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳に石河光忠領で「弐百九拾弐石五斗五升 厚見郡市瀬村」とあるのが当村のこととみられ、厚見郡は誤記か。正保郷帳では高三〇一石余のうち二九二石五斗余が尾張藩領、九石余が天喜寺領。内訳は田九八石余・畑一九九石余、山年貢三石余。明暦覚書には概免五ツ九分八厘とある。延宝九年(一六八一)の家並改帳(一之瀬支所保管)によると棟数一二三(寺二・在家一〇二・柴屋六など)・人数五八八、馬一〇・牛五二。
市之瀬村
いちのせむら
[現在地名]内浦町市之瀬・明野
越坂村の西、九十九湾の内奥に面し、集落は海沿いの下市之瀬と山手の上市之瀬がある。西の真脇村(現能都町)境に峠と称する地があり、永正一五年(一五一八)三月の冷泉為広「能州下向日記」に「峠満福寺アリ」とみえる。「能登名跡志」によれば「昔この処に行基菩薩の開基の大寺あり、七堂伽藍にして、行基山新善光寺と云し由、天正の頃兵火の為に退転す、今も石垣・礎等其儘あり(中略)今寺号・本尊は真脇村にあり、(中略)此所の熊野権現は鎮守也しと云り」とみえ、おそらく満福寺とあるのは誤記と考えられる。
市之瀬村
いちのせむら
[現在地名]下部町市之瀬
常葉村・清沢村の北西、岩欠村の西、古関川(常葉川上流部)の河岸段丘や沖積地に立地し、集落は古関川沿いの段丘上にある。一ノ瀬・市瀬とも記す。東河内路が通る。地内中村に常葉氏を滅ぼした馬場氏の館跡と伝える所がある。慶長古高帳に一之瀬とみえ高六六石余、幕府領。ほかに明円寺(妙円寺)領七石。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高八七石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数五三・人数二一八、馬六。用水は古関川より取水した二筋の用水路を利用した(甲斐国志)。
市之瀬村
いちのせむら
[現在地名]綾部市五泉町 市之瀬
畑口川と水梨川の合流点から東方の畑口谷・本谷の山麓にある。上流は市志村、下流は辻村。一之瀬とも書く(天保郷帳)。
中世は上林庄の地。地名は天文年間(一五三二―五五)の勧進奉加帳(光明寺文書)に「壱瀬 左衛門」「一瀬村」とみえるのが早い。江戸時代の山家藩領。
慶長六年(一六〇一)の御知行方目録(山家藩庁文書)の高九六石余に対し、貞享検地で四〇三石余となったのは切畑などが高のうちに入れられたからであろう。
市之瀬村
いちのせむら
[現在地名]三田市市之瀬
下槻瀬村の西、山田川上流域の山地と丘陵地に立地する。東は切詰峠越で下槻瀬村と結ばれ、また南西の志手原村への道が通じている。槻瀬村のうちが開発されて成立した新田村で、郷帳類では槻瀬村内に含まれている。しかし摂津麻田藩領内では江戸中期には分離し、享保二〇年(一七三五)の摂河泉石高調に市之瀬村とみえ、高三四石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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