常泉寺
じようせんじ
国道八号の西に位置する曹洞宗寺院で、山号は巌谷山。本尊は釈迦如来。享禄二年(一五二九)に雲門寺四世の悦伝紹欣が開創。もとは松倉城に近い大熊の巌谷にあったというが、永禄一二年(一五六九)頃に上杉輝虎(謙信)の攻撃を受けて椎名氏が没落したため、天正四年(一五七六)に片貝谷の東城村に移ったという。貞享二年寺社由緒書上などによれば、創立期に松倉城主椎名右衛門大夫の子息が出家して弟子入りし、やがて常泉寺三世松室文寿となった。二世梅室昌悦は天文元年(一五三二)に東山村に梅昌院(現梅昌寺)を開き、翌年には常泉寺地内に塔頭紹陽院(現真成寺町紹陽寺)を開いた。続いて同二〇年に黒谷村に雲谷寺、翌年全龍寺(現宇奈月町)を開き、弘治元年(一五五五)には臨済宗吉祥寺(現黒部市)を再興して曹洞宗に改めている。
常泉寺
じようせんじ
[現在地名]大宮市染谷
加田屋新田西部の台地上に位置する。瑞谷山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。下野国鹿沼の瑞光寺の末寺であった。開創は永正年間(一五〇四―二一)と伝える。開山は多摩郡二俣尾村(現東京都青梅市)の海禅寺三世の雪庵寿欽(大永三年没)。開基は未詳。中興開基は染谷村名主の先祖という浅子大学と伝えるが(風土記稿)、現在境内には「中興開基 玉鳳院殿古室負鏡大姉」と刻銘される墓碑があり、それによると旗本大岡忠征の室が中興開基となる。宝暦五年(一七五五)の没。徳川家康は天正一九年(一五九一)一一月寺領一〇石を安堵している(「徳川家康朱印状写」寺蔵)。同年八月の常泉寺領之地帳(寺蔵)によると下田一町六反余・下畠九反余を領していた。
常泉寺
じようせんじ
[現在地名]峰山町字菅
愛宕山丘陵南の山腹にある。山号臨川山(もと松雲山)、臨済宗天龍寺派、本尊観世音菩薩。
「峯山旧記」は
<資料は省略されています>
と由緒を記す。
なお江戸時代、当寺の鎮守社に履掛明神(現久津方神社、小字大門崎に鎮座)があった。峯山明細記は「履掛明神(中略)祭礼九月十五日峰山田町神子内膳相雇、神社常泉寺鎮守、社・境内共常泉寺支配仕、尤社修復等寺并産子中より仕候」と記す。
常泉寺
じようせんじ
[現在地名]中村区中村町 木ノ下屋敷
太閤山と号し、日蓮宗。秀吉出生地にちなみ、元和九年(一六二三)妙勝寺(現海部郡甚目寺町)円住院日誦の創建(慶長年間創建説もある)。境内に秀吉産湯の井戸と秀吉植付の柊が伝承として伝わる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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