菅村(読み)すげむら

日本歴史地名大系 「菅村」の解説

菅村
すげむら

[現在地名]多摩区菅・寺尾台てらおだい一―二丁目

北を多摩川が流れ、東は上菅生かみすがお村・多摩郡中野島なかのしま村、西は細山ほそやま(現麻生区)・多摩郡矢野口やのくち(現東京都稲城市)に接する。北部は平地、南部は丘陵地帯。城の越しろのこし鷹之巣たかのす馬場耕地ばばこうち・おんまはしなどの小字がある。田園簿に村名がみえる。

近世は初め幕府直轄領、寛永一七年(一六四〇)旗本中根領、元禄元年(一六八八)以降幕府直轄領。田園簿の村高は四五七石余だがその後新田開発が進められたらしく、延享三年(一七四六)一月の村明細帳(県史七)によれば、元禄三年伊奈氏検地により村高一千一六七石余となり、享保一五年(一七三〇)・同一八年の新田検地を受けて村高が確定。


菅村
すげむら

[現在地名]矢部町菅

西は天主山(一四九四・一メートル)をはじめとする山々および内大臣ないだいじん川上流の広河原谷を隔てて目丸めまる村、東は遠見とおみ山・三方さんぽう(一五七七・五メートル)などの山々を越えて木原谷きはらだに村・川口かわのぐち村・栗林くりばやし(現清和村)、南東から南にかけては三方山・たか(一五六三・二メートル)国見くにみ(一七三八・八メートル)を結ぶ線で日向国と境している。東辺を矢筈やはず(一一一三メートル)を源とする白谷しらたに川が流れ、村のほぼ中央を鴨猪かもしし川が北西流し、緑川に合流する。大部分が山林の広大な面積をもつ村である。

正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「上すけの分 三貫文」「下すけの分 十二貫文」と上下に分れてみえる。南北朝合一時の阿蘇惟郷時代のことを記した小陣惟富書状写・小陣惟長書状(西巌殿寺文書)によると、菅が日向国鞍岡くらおか(現宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬村)や豊後国とつながりがあったことがうかがえる。


菅村
すげむら

[現在地名]吉井町生葉いくは

生葉郡の西端、巨瀬こせ川中流右岸の微高地に位置し、西は竹野たけの郡菅村。竹野郡の菅村との混同を避け上菅村ともよぶ。菅を名字の地とする開発領主に菅氏がおり、鎌倉初期に筑後国三潴みづま八院はちいん(現大川市・大木町)に所領を有した菅藤三入道唯仏(正応四年九月二日「関東充行状案」鍋島家文書/鎌倉遺文二三)や南北朝期に竹野たかの松門寺しようもんじ(現田主丸町)地頭職を没収された菅大輔房(応永八年一二月一七日「渋川満頼安堵状」佐田文書/熊本県史料 中世篇二)などが確認できる。戦国期に竹野郡小河おがわ(現田主丸町)などを知行した小河藤五郎も菅藤五郎と名乗っており、文亀三年(一五〇三)に大友親匡から「菅名字地」八町ほかを安堵されている(同年九月二日「大友親匡安堵状」小河文書/福岡県史資料一〇)


菅村
すげむら

[現在地名]東城町菅

竹森たけもり村の西に位置する。小奴可おぬか川が当村と竹森村および請原うけばら村との境を南流する。北西の田黒たぐろ村から東南流する田黒川は、当村の篠原しのはらを経て上菅かみすげの南西の土居どいで小奴可川に合流する。また西の川鳥かわとり村を経て村域南部を流れる三草みくさ川は、村内の花屋尻はなやじり大谷おおたに川を合わせ、請原村境の鳴之瀬なるのせで小奴可川に注ぐ。集落は小奴可川・田黒川・三草川沿いに狭く開けた谷間の平地に散在する。古く砂鉄採取のための鉄穴流しによって開かれた村と考えられ、村域北・中部の随所に起伏の激しい不自然な山容が見られる。


菅村
すげむら

[現在地名]御調町菅

大塔だいとう村の西南に位置する山村。御調川支流大塔川が村の南部を東流し、その流域の谷や北部山地の南側緩傾斜面に耕地が展開。大半は南向きで日当りはよいが灌漑用水の不足により干損を受けることがある。標高二五〇メートル以上の高さがあり、尾道市と福山市との間の松永まつなが湾を望むことができる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では高一四四八・九六二石のうしかわ村に含まれており、「国郡志下調書出帳」によると、寛永一五年(一六三八)の地詰帳では菅・菅山方すげやまかた平木ひらぎ江田えたの四ヵ村は菅組すげぐみ村とされている。


菅村
すげむら

[現在地名]峰山町字菅・字光明寺こうみようじ

竹野川の左岸、支流鱒留ますどめ川の流域に位置し、愛宕あたご山を背にした下菅しもすげと鱒留川北側の上菅の二集落に分れる。両集落の中央を網野街道が南北に走る。田地は鱒留川両岸の沖積地に開け、鱒留川が竹野川に合流する付近は、東西に広がる中郡平野の最大幅をなしている。

小字沖波おきなみに弥生前・中期の菅遺跡があり、鱒留川を挟んだ南の対岸の、途中とちゆうおか遺跡との関係が考えられる。北の丘陵小字丸山まるやまには弥生後期の遺物が散布し、愛宕山頂の愛宕神社境内一帯の小字カラナンには数基の古墳がある。


菅村
すげむら

[現在地名]吉井町鷹取たかとり

生葉いくは郡菅村の西に位置する。竹野たけの郡に属し、屋敷地は美津留みつる川左岸に沿い、耕地は巨瀬こせ川右岸にある(上三郡絵図)。下菅村とも称された。本高は九二石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二八〇石・役高三六一石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦一二石八斗余・小麦七石・菜種三石五斗(「竹野郡本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代八斗三升、人数一〇七、馬一五(上三郡取調手鑑)


菅村
すげむら

[現在地名]御津町高津たかづ

旭川の支流宇甘うかい川右岸に位置し、東は河内こうち村の枝村富谷とみたに、西は宇甘上うかいかみ村の枝村下畑しもはた、南は山を隔てて河内村の枝村小田おたに接する。南に広がる丘陵の尾根上には、菅古墳群・みそのお古墳群がある。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」に「うかい村、すけの村三ケ村金川上下七社ノ御まつりノ時おりかた」として、各種の供物が書上げられている。寛永備前国絵図に高一六二石余とある。「備陽記」には田畑一五町五反余、家数三一・人数二一二、池一。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば、田高一〇八石余・七町九反余、畑高四四石余・五町二反余、開方田畑高三九石余・四町九反余。


菅村
すげむら

[現在地名]木祖村大字菅

藪原やぶはら宿と宮越みやのこし宿の中間にある吉田よしだ集落の辺りで木曾川と合流する菅川沿いに九つの集落が散在する戸数一〇五戸(吉蘇志略)の小さな村で、東は藪原、西は黒川くろかわ、南は上田うえだ、北は荻曾おぎそに境している。

天保九年(一八三八)の「木曾巡行記」に「この地土黒く寒気強く谷川の東、日面の畑ばかり麦生立ち、その余は夏の作、粟・稗・大豆・蕎麦ばかりなり。蚕は飼立ども早霜降りて年により不同あり、畑多にて、年内の食物不足ゆゑ藪原産物木櫛類商ひ他国へ出る者廿人ほどあり。そのほか杣・木挽に出る者も廿九人あり。女馬百四五十疋も飼立てるよし」とあるように、いたって生産力の低いところであった。


菅村
すげむら

[現在地名]武生市菅町

若狭湾に注ぐぬか川の一支流の谷あいにある。中世は山干飯やまかれい保の地。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高四一・九二七石、先高三八石余・出分三石余。正保郷帳によると田方三一石余・畠方一〇石余。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領となった。


菅村
すげむら

[現在地名]宇目町大平おおひら 上仲江かみなかえ

伏部野ふすべの村の東に位置。重岡しげおか村から大原おおはる村への道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田高六四石余・畑高一六石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高八三石余。寛政三年(一七九一)には重岡組に属し、村位は上、免五ツ二分(「組々免村継郡付庄屋村横目名面帳」三重町立図書館蔵)


菅村
すげむら

[現在地名]篠山市菅

大淵おおぶち村の北にある。東部のヨセハで三角縁神獣鏡・鏡板・環鈴(県指定文化財)が出土している(長谷寺所蔵)。古くは里畑さとはた村のうちで、正保郷帳に「菅村」とみえ、田高七八石余・畠高二四石余。元禄郷帳では里畑を冠称する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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