常磐津兼太夫 (ときわづかねたゆう)
常磐津節の太夫。(1)初世 2世常磐津文字太夫の前名。(2)2世(1755-1802・宝暦5-享和2) 初世の弟。初名大和太夫。1787(天明7)11月2世襲名。一門の実力者であったが,3世文字太夫を相続しようとして失敗,99年(寛政11)破門され,吾妻国太夫を名のって一派を立てたが,1802年(享和2)6月横死。恵橋と号し,また大橋の兼太夫と呼ばれた。(3)3世(1761-1814・宝暦11-文化11) 2世の門弟。初名常磐津組太夫,のち綱太夫。2世の独立後,2世小文字太夫を助け常磐津の流派を守った。1809年(文化6)3世襲名。作品の曲節を当代向きに改めたといわれている。通称本芝兼太夫。(4)4世 生没年不詳。3世の門弟。3世同様組太夫,綱太夫を経て1819年(文政2)襲名。4世文字太夫を補佐。33年(天保4)家元隠居名松寿斎を譲られる。(5)5世(1789-1861・寛政1-文久1) 1834年(天保5)襲名。51年(嘉永4)隠居,松玉斎と名のる。(6)6世 5世常磐津文字太夫の後名。(7)7世(1886-1944・明治19-昭和19) 常磐津麒麟太夫が1925年襲名。以上のほか岸沢派に2人兼太夫があったが代数には入れない。
執筆者:安田 文吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
常磐津 兼太夫(7代目)
トキワヅ カネタユウ
- 職業
- 常磐津節太夫
- 本名
- 渡辺 徳次郎
- 別名
- 前名=常磐津 小吾妻,常磐津 麒麟太夫
- 生年月日
- 明治20年
- 出生地
- 東京
- 経歴
- 2代常磐津和佐太夫(のち呂僊翁)の門に入り、小吾妻、麒麟太夫を経て、大正15年空白だった7代兼太夫を名乗った。声は高いが低音がよく、放送にたびたび出演、世話物の道行、歳旦物が得意で、多くの弟子を育てた。
- 没年月日
- 昭和19年 8月18日 (1944年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
常磐津 兼太夫(7代目)
トキワヅ カネタユウ
大正・昭和期の常磐津節太夫
- 生年
- 明治20(1887)年
- 没年
- 昭和19(1944)年8月18日
- 出生地
- 東京
- 本名
- 渡辺 徳次郎
- 別名
- 前名=常磐津 小吾妻,常磐津 麒麟太夫
- 経歴
- 2代常磐津和佐太夫(のち呂僊翁)の門に入り、小吾妻、麒麟太夫を経て、大正15年空白だった7代兼太夫を名乗った。声は高いが低音がよく、放送にたびたび出演、世話物の道行、歳旦物が得意で、多くの弟子を育てた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
常磐津兼太夫(3代)
没年:文化11.7.27(1814.9.10)
生年:宝暦11(1761)
江戸中期の常磐津節の太夫。本業は魚商で,名は江戸屋兼吉。号は芝中,松寿斎。通称本芝のまぐろの兼太夫。2代目兼太夫の弟子で,2代目組太夫,綱太夫を経て,文化6(1809)年3代目を継ぐ。『老の戯言』によると,従来の常磐津節を改訂,今日に伝わる語り口を形成したという。<参考文献>岩沙慎一『江戸豊後浄瑠璃史』
常磐津兼太夫(2代)
没年:享和2.6.16(1802.7.15)
生年:宝暦5(1755)
江戸中期の常磐津節の太夫。号は恵橋,通称大橋の兼太夫。2代目常磐津文字太夫の弟。前名大和太夫。天明7(1787)年2代目襲名,寛政11(1799)年2月跡目相続争いで兄から破門され,吾妻国太夫を名乗って独立したが,刺客のために横死。<参考文献>岩沙慎一『江戸豊後浄瑠璃史』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
常磐津兼太夫(2代) ときわず-かねたゆう
1755-1802 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
宝暦5年生まれ。常磐津節の2代常磐津文字太夫の弟。大和太夫をへて天明7年江戸森田座で2代兼太夫を襲名。寛政11年文字太夫の跡目相続の争いで兄に破門され,吾妻(あづま)国太夫と名のって一派をたてたが,享和2年6月16日刺殺された。48歳。通称は大橋兼太夫。号は恵橋。
常磐津兼太夫(3代) ときわず-かねたゆう
1761-1814 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
宝暦11年生まれ。常磐津節。江戸屋兼吉という魚商。2代兼太夫の弟子。2代組太夫,初代綱太夫をへて,文化6年3代を襲名。従来の常磐津の節付けに改訂をくわえたとされる。文化11年7月27日死去。54歳。江戸出身。通称は本芝のまぐろ兼太夫。号は芝中(しちゅう),松寿斎。
常磐津兼太夫(7代) ときわず-かねたゆう
1886-1944 大正-昭和時代前期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治19年9月12日生まれ。常磐津節の2代常磐津和佐太夫(呂僊(ろせん)翁)の弟子。麒麟(きりん)太夫をへて,大正15年7代を襲名した。昭和19年8月18日死去。59歳。東京出身。本名は渡辺徳次郎。
常磐津兼太夫(5代) ときわず-かねたゆう
1789-1861 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
寛政元年生まれ。常磐津節。天保(てんぽう)8年5代を襲名。4代常磐津文字太夫(豊後大掾(ぶんごのだいじょう))のワキをつとめる。のち松玉斎とあらため隠居。文久元年8月15日死去。73歳。
常磐津兼太夫(4代) ときわず-かねたゆう
?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
薩摩(さつま)(鹿児島県)の人。常磐津節の3代兼太夫の弟子。3代組太夫,2代綱太夫をへて文政2年(1819)4代を襲名。天保(てんぽう)4年2代松寿斎とあらため隠居した。
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世界大百科事典(旧版)内の常磐津兼太夫の言及
【常磐津文字太夫】より
…(2)2世(1731‐99∥享保16‐寛政11) 初世門弟。初名鐘太夫,のち兼太夫(初世[常磐津兼太夫])を経て1787年(天明7)2月初世の七回忌を機に文字太夫を襲名。初世里長の富本移籍,2世兼太夫の破門などの紛争もあったが,《[関の扉]》《古山姥》《[戻駕]》のほか《小松曳》《葛の葉》《古お半》などの名作を語り,常磐津を隆盛に導いた。…
【常磐津節】より
…文字太夫は順調に活躍を続けたが,1768年(明和5)に立三味線初世市蔵が死没,その後継者に初世[岸沢式佐]が選ばれたため,佐々木派と組んだ志妻,造酒(みき)両太夫が豊名賀と,若太夫が富士岡と改姓し一派を樹立した。ただし後者は1代で消滅,前者は3代限りで初世常磐津兼太夫のとき常磐津に再統一された。 2世文字太夫(初世兼太夫)は造酒太夫,2世兼太夫,三味線初世鳥羽屋里長(りちよう),2世岸沢式佐という陣容で活躍するが,1791年(寛政3)に初世鳥羽屋里長が,99年には2世里長が富本へ走った。…
※「常磐津兼太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」