常磐津文字太夫(読み)トキワズモジタユウ

デジタル大辞泉 「常磐津文字太夫」の意味・読み・例文・類語

ときわず‐もじたゆう〔ときはづモジタイフ〕【常磐津文字太夫】

[1709~1781]初世。常磐津節創始者。京都の人。俗称、駿河屋文右衛門。初世宮古路豊後掾みやこじぶんごのじょうに師事、宮古路文字太夫と名のって江戸で豊後節の再興に努めたが、延享4年(1747)常磐津と改姓して一流を興した。

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精選版 日本国語大辞典 「常磐津文字太夫」の意味・読み・例文・類語

ときわず‐もじたゆう【常磐津文字太夫】

  1. 初世。常磐津節の太夫。常磐津節の始祖。本名駿河屋文右衛門。京都の人。宮古路国太夫半中(豊後掾)の門弟。師とともに、江戸に下り、豊後節禁止後、常磐津と改め流派を統率した。宝永六~天明元年(一七〇九‐八一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「常磐津文字太夫」の意味・わかりやすい解説

常磐津文字太夫
ときわずもじたゆう

常磐津節の家元名。

[林喜代弘・守谷幸則]

初世

(1709?―81)常磐津節の創始者。京都・寺町の町人の出で、俗称駿河屋(するがや)文右衛門。宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)が国太夫半中(くにたゆうはんちゅう)時代の門人で、初名は右膳(うぜん)。1734年(享保19)師と江戸に下り、文字太夫と改名してワキを勤め、36年(元文1)に立語りとなる。39年の豊後節の禁止後も江戸に在住し、47年(延享4)一流を樹立した。75年(安永4)一世一代の出語りを最後に隠棲(いんせい)。俳名文中。常磐津が独立した年の翌年、1748年(寛延1)に小文字太夫が脱退、富本節を創始するといった事件があり、69年(明和6)から82年(天明2)には志妻(しづま)太夫が豊名賀(とよなか)派を、造酒(みき)太夫が富士岡派を樹立している。

[林喜代弘・守谷幸則]

2世

(1756―99)通称藤兵衛。初世の門弟。初名兼(かね)太夫。初世兼太夫から1787年(天明7)2世を継ぐ。99年(寛政11)6月に引退。引退の年に2世兼太夫が家元相続の争いから常磐津を脱退、吾妻国(あづまくに)太夫と改名、独立した。また、さかのぼっては91年に初世鳥羽屋里長(とばやりちょう)が富本節へ転じている。

[林喜代弘・守谷幸則]

3世

(1792―1819)2世の子。通称林之助(りんのすけ)。1819年(文政2)3世を襲名したが、その年の暮れに28歳で死去。

[林喜代弘・守谷幸則]

4世

(1804―62)幼名男熊(おぐま)。初世の孫の初世市川男女蔵(おめぞう)の次男。1837年(天保8)4世を襲名。50年(嘉永3)豊後大掾(ぶんごだいじょう)を受領(ずりょう)。4世岸沢古式部との間に不和が生じ、岸沢派は分離独立した。この分離独立は明治に7世小文字太夫(後の初世常磐津林中(りんちゅう))によって和解が成立するまで続く。さらに1906年(明治39)林中が死去するとふたたび対立、岸沢は新派と称して分裂したが、27年(昭和2)常磐津協会の設立により解消した。

[林喜代弘・守谷幸則]

5世

(1822―69)4世の養子林之助。清元で琴太夫と名のっていたが望まれて養子に入り、若太夫から1837年(天保8)小文字太夫となり、62年(文久2)に5世を襲名したが、ゆえあって離縁。別家して6世兼太夫となる。

[林喜代弘・守谷幸則]

6世

(1851―1930)本名常岡丑五郎(うしごろう)。初名は浪花(なにわ)太夫。1888年(明治21)6世小文字太夫(佐六文中)の未亡人の養子となり、小文字太夫を襲名。1902年(明治35)6世を継承。26年隠居して2世豊後大掾と改名した。東京音楽学校(現東京芸術大学)の嘱託となり常磐津節の五線譜化に努めた。

[林喜代弘・守谷幸則]

7世

(1897―1951)本名常岡鉱之助。6世の養子となり、小文字太夫を継ぐ。6世の隠居とともに7世を襲名。

[林喜代弘・守谷幸則]

8世

(1918―91)本名常岡晃(あきら)。7世の実子。1951年(昭和26)8世を継ぐ。

[林喜代弘・守谷幸則]

9世

(1947― )本名常岡薫(かおる)。8世の実子。1976年(昭和51)8世小文字太夫を継承、91年(平成3)父の死去に伴い家元となる。94年9世襲名。なお、小文字太夫の名跡は現家元家では離縁されたものを含まないため代数の計算があわない場合がある。

[林喜代弘・守谷幸則]

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改訂新版 世界大百科事典 「常磐津文字太夫」の意味・わかりやすい解説

常磐津文字太夫 (ときわづもじたゆう)

常磐津節の家元。(1)初世(1709-81・宝永6-天明1) 京都寺町の生れ。俗称駿河屋文右衛門。位牌商であったが,1716-26年(享保1-11)ごろ宮古路国太夫(のちの宮古路豊後掾)の門弟(のちに養子)となり,宮古路文字太夫(一説に前名を右膳とする)と名のる。豊後掾は32年から34年正月ごろまで名古屋滞在ののち江戸に下る。文字太夫は京から江戸へ直行し,34年9月葺屋町河岸播磨芝居,翌35年7月中村座の《睦月連理𢢫(むつまじきれんりのたまつばき)》で師の脇を勤める。いずれも大入り大当り。以後豊後節は江戸で大流行したが,36年(元文1)3月市村座の文字太夫の《小夜中山浅間嶽》に上演中止の沙汰が出され,39年には豊後節は一切禁止となった。文字太夫は師を助けて豊後節の隆盛に努めたが,逆に文字太夫の人気が豊後節の弾圧を呼んだともいえよう。文字太夫の髪形に似せた文金島田が当時流行の風俗となったが,この髪形も含めて,対丈(ついたけ)の長羽織・長紐といった奇抜な格好が風俗の乱れの一つとして取締りの対象となったことや,市村座の文字太夫浄瑠璃に停止の沙汰が出されたことなどがその証左として挙げられる。豊後節禁止後も文字太夫は江戸に留まり再起の機会を狙っていたが,豊後節復活運動が功を奏して43年(寛保3)秋中村座に脇志妻太夫,三味線佐々木幸八で出演した。同門の綱太夫,加賀太夫,数馬太夫らもそれぞれ独立したが,文字太夫は自身の門弟のみで46年(延享3)9月豊後掾の七回忌に追善の石碑を浅草に建て,豊後掾の正統な後継者であることを内外に示した。翌47年豊後節にみずからの工夫を加え一流を創始し関東姓を名のったが,幕府から差し止められ改めて常磐津と名のった。江戸三座を中心に活躍し,65年(明和2)中村座の《蜘蛛の糸》はその代表曲である。75年(安永4)11月森田座での《樹花恋浮船(きごとのはなこいのうきふね)(茶筅売)》を最後に隠居し松寿斎文中と名のった。(2)2世(1731-99・享保16-寛政11) 初世門弟。初名鐘太夫,のち兼太夫(初世常磐津兼太夫)を経て1787年(天明7)2月初世の七回忌を機に文字太夫を襲名。初世里長の富本移籍,2世兼太夫の破門などの紛争もあったが,《関の扉》《古山姥》《戻駕》のほか《小松曳》《葛の葉》《古お半》などの名作を語り,常磐津を隆盛に導いた。99年6月病床で常磐津太夫文中と改名,実子林之助に2世常磐津小文字太夫を名のらせた。(3)3世(1792-1819・寛政4-文政2) 2世小文字太夫を経て1819年7月文字太夫を襲名。これ以後小文字太夫は文字太夫の控え名(前名)となる。富本との勢力争いに鎬(しのぎ)を削り,28歳の若さで死没。(4)4世(1804-62・文化1-文久2) 3世の養子。初世の女婿2世市川門之助の長男初世男女蔵の次男男熊(おくま)。1820年(文政3)冬3世小文字太夫をついだのち,37年(天保8)正月文字太夫を襲名,50年(嘉永3)12月嵯峨御所より受領して豊後大掾藤原昶光と名のる。《角兵衛》《釣狐》《夕涼み三人生酔》《お三輪》《靱猿》《粟餅》《新山姥》など,現存の常磐津曲の多くはこの時代に作られた。60年(万延1)立三味線4世古式部と対立,袂を分かつ。この後の三味線方松寿斎文中は一説に豊後掾自身であるといわれる。(5)5世(1822-69・文政5-明治2) 4世の養子。初め清元を学び琴太夫と称したが,1836年(天保7)養子となり,2世林之助と改名,翌37年4世小文字太夫を相続。豊後大掾没後に文字太夫を襲名。のち故あって離縁となり,独立して6世兼太夫を名のる。(6)6世(1851-1930・嘉永4-昭和5) 桐生の大工職人の子。幼名真田丑五郎。3世岸沢三蔵に師事,小金,三吉,文蔵,式松と改名,のち語りに転向,小花(尾花)太夫,浪花太夫を経て,1888年7世小文字太夫離縁後,家元(豊後大掾庶子佐六文中の未亡人)の養子となり,8世小文字太夫を相続,本姓を常岡と改める。1902年4月文字太夫を襲名。26年5月2世豊後大掾を名のる。小音であるが技巧に優れていた。東京音楽学校邦楽調査掛の嘱託として五線譜化に協力した。(7)7世(1897-1951・明治30-昭和26) 本名常岡鉱之助。6世の妻の甥小政太夫の次男。6世の養子となり,初名小文太夫,1925年9世小文字太夫をつぎ,翌26年9月文字太夫を襲名。(8)8世(1918-91・大正7-平成3)7世の長男。本名常岡晃。1948年10世小文字太夫をつぎ,51年文字太夫を襲名。

 なお,常磐津家元系図は,伊藤出羽掾を初世とするので,これを加えると系図上は現在16世となる。
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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「常磐津文字太夫」の解説

常磐津 文字太夫(6代目)
トキワヅ モジタユウ


職業
常磐津節太夫

本名
常岡 丑五郎

旧名・旧姓
真田

別名
前名=常磐津 小文字太夫(8代目)(トキワズ コモジダユウ),晩名=常磐津 豊後大掾(トキワズ ブンゴノダイジョウ)

生年月日
嘉永4年

出生地
江戸・小石川(東京都)

経歴
代々常磐津節浄瑠璃の家元。3代目岸沢三蔵に三味線を学んだ。太夫に進み、明治21年38歳の時、左六文中(6代目常磐津小文字太夫)の未亡人の養子となり、常岡と改姓、8代目小文字太夫を経て、35年6代目文字太夫を襲名(52歳)。大正15年隠居して2代目豊後大掾。小音だったがうまさは名人林中以上だったという。7代目は妻の甥の常岡鉱之助が継いだ。

没年月日
昭和5年 2月15日 (1930年)

家族
養子=常磐津 文字太夫(7代目)


常磐津 文字太夫(8代目)
トキワヅ モジタユウ


職業
常磐津節太夫

肩書
常磐津節家元(16代目),常磐津協会会長,常磐津流保存会会長

本名
常岡 晃

別名
前名=常磐津 小文字太夫(10代目)

生年月日
大正7年 8月17日

出生地
東京

学歴
日本俳優学校卒

経歴
昭和23年10代目小文字太夫を継ぎ、26年8代目文字太夫を襲名。

所属団体
日本芸能実演家団体協議会,邦楽連合会

受賞
勲四等瑞宝章〔平成1年〕

没年月日
平成3年 3月19日 (1991年)

家族
父=常磐津 文字太夫(7代目),息子=常磐津 文字太夫(9代目)


常磐津 文字太夫(7代目)
トキワヅ モジタユウ


職業
常磐津節太夫

肩書
常磐津節家元(15代目)

本名
常岡 鉱之助

別名
前名=常磐津 小文太夫(4代目),常磐津 小文字太夫(9代目)

生年月日
明治30年 2月2日

出生地
東京

経歴
6代目常磐津文字太夫の養子となり、4代目小文太夫を経て、大正14年9代目小文字太夫、15年7代目文字太夫を襲名。作品に「権八」「宗五郎」など。

没年月日
昭和26年 5月4日 (1951年)

家族
父=常磐津 小政太夫,養父=常磐津 文字太夫(6代目),長男=常磐津 文字太夫(8代目),四男=常磐津 浪花太夫,孫=常磐津 文字太夫(9代目)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

朝日日本歴史人物事典 「常磐津文字太夫」の解説

常磐津文字太夫(初代)

没年:天明1.2.1(1781.2.23)
生年:宝永6.7(1709.1)
江戸中期の常磐津節の創始者。京都の人。本名駿河屋文右衛門。号は松根亭,松寿斎。宮古路豊後掾 の門人で,はじめ右膳といったらしい。享保19(1734)年ごろ江戸に下り,豊後掾のワキを語った。元文1(1736)年2月に立語りとなり,市村座で「傾城小夜の中山」を語ったが,同年3月27日に禁止され,さらに同年9月豊後節の町家での稽古が禁止され,4年9月(一説に10月)には豊後節は江戸では全面禁止となってしまった。しかし,その後も江戸にとどまり,寛保3(1743)年江戸三座に復帰。延享4(1747)年10月関東を名乗ろうとしたが,これを差し止められたので,さらに改姓して同年11月中村座顔見世で常磐津を名乗った。宝暦3(1753)年春,市村座での「鐘入妹背俤」の出語りで大当たりし,同年11月からは京帰りの作者壕越二三治と提携し,「芥川紅葉柵」など次々と評判作を作り,浄瑠璃を地とする劇舞踊の流行を作り出した。富本などの分裂騒動を乗り越え,常磐津節の地歩を固め,安永4(1775)年の一世一代で隠退した。<参考文献>岩沙慎一『江戸豊後浄瑠璃史』,安田文吉『常磐津節の基礎的研究』,安田文吉『常磐津節の基礎的研究』

(安田文吉)


常磐津文字太夫(3代)

没年:文政2.12.1(1820.1.16)
生年:寛政4(1792)
江戸中期の常磐津節の太夫。2代目文字太夫の子で,幼名林之助。寛政11(1799)年,2代目文字太夫が死に際して,2代目兼太夫を破門し,林之助に2代目小文字太夫を襲名させる。文化4(1807)年初舞台,11月市村座で「花安宅扇盃」を語って劇場初出勤。文政2(1819)年7月3代目文字太夫を継いだ。幼いころ跡目を継いだので,3代目兼太夫などがもり立てたが,早世したため事績は多くはなかった。しかし,変化舞踊の盛んな時期で,「願人坊主」「景清」「心中翌の噂」などを語った。<参考文献>岩沙慎一『江戸豊後浄瑠璃史』,安田文吉『常磐津節の基礎的研究』

(安田文吉)


常磐津文字太夫(2代)

没年:寛政11.7.8(1799.8.8)
生年:享保16(1731)
江戸中期の常磐津節の太夫。本名越後屋佐六。通称藤兵衛。号は文中。宝暦5(1755)年鐘太夫を名乗る。11年5月初舞台。初代兼太夫となって,明和6(1769)年11月,若太夫,志妻太夫の常磐津からの破門・独立により初代文字太夫の後継者となった。安永3(1774)年4月に立語りとなり,天明7(1787)年2月2代目文字太夫となる。寛政11(1799)年6月隠退。劇舞踊の全盛期にあって,名手の名が高く,「関の扉」「山姥」「戻駕」「夕霧」「帯文桂川水」など常磐津節の名曲を多く語っている。<参考文献>岩沙慎一『江戸豊後浄瑠璃史』

(安田文吉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「常磐津文字太夫」の解説

常磐津 文字太夫(6代目)
トキワヅ モジタユウ

明治〜昭和期の常磐津節太夫



生年
嘉永4年(1851年)

没年
昭和5(1930)年2月15日

出生地
江戸・小石川

本名
常岡 丑五郎

旧姓(旧名)
真田

別名
前名=常磐津 小文字太夫(8代目)(トキワズ コモジダユウ),晩名=常磐津 豊後大掾(トキワズ ブンゴノタイジョウ)

経歴
代々常磐津節浄瑠璃の家元。3代目岸沢三蔵に三味線を学んだ。太夫に進み、明治21年38歳の時、左六文中の未亡人の養子となり、常岡と改姓、8代目小文字太夫を経て、35年6代目文字太夫を襲名(52歳)。大正15年隠居して2代目豊後大掾。小音だったがうまさは名人林中以上だったという。7代目は妻の甥の常岡鉱之助が継いだ。


常磐津 文字太夫(8代目)
トキワヅ モジタユウ

昭和・平成期の常磐津節太夫 常磐津節家元(16代目);常磐津協会会長;常磐津流保存会会長。



生年
大正7(1918)年8月17日

没年
平成3(1991)年3月19日

出生地
東京

本名
常岡 晃

別名
前名=常磐津 小文字太夫(10代目)

学歴〔年〕
日本俳優学校卒

主な受賞名〔年〕
勲四等瑞宝章〔平成1年〕

経歴
昭和23年10代目小文字太夫を継ぎ、26年8代目文字太夫を襲名。


常磐津 文字太夫(7代目)
トキワヅ モジタユウ

大正・昭和期の常磐津節太夫 常磐津節家元(15代目)。



生年
明治30(1897)年2月2日

没年
昭和26(1951)年5月4日

出生地
東京

本名
常岡 鉱之助

別名
前名=常磐津 小文太夫(4代目),常磐津 小文字太夫(9代目)

経歴
6代目常磐津文字太夫の養子となり、4代目小文太夫を経て、大正14年9代目小文字太夫、15年7代目文字太夫を襲名。作品に「権八」「宗五郎」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「常磐津文字太夫」の意味・わかりやすい解説

常磐津文字太夫(1世)
ときわずもじたゆう[いっせい]

[生]宝永6(1709)
[没]安永10(1781)
常磐津節の家元。京都の仏具商の生れ。都国太夫半中 (のちの宮古路豊後掾) の門弟となり,享保 19 (1734) 年には江戸に下り,師の豊後のワキをつとめた。元文4 (39) 年豊後節の禁止後,延享4 (47) 年関東文字太夫と改姓して独立したが,北町奉行から関東の姓を止められて常磐津と改めた。立三味線の佐々木市蔵,岸沢古式部と組んで,歌舞伎舞踊の伴奏音楽としての地盤を築いた。のちに隠居して松寿斎文中と称した。

常磐津文字太夫(4世)
ときわずもじたゆう[よんせい]

[生]文化1(1804)
[没]文久2(1862)
常磐津節の家元。3世常磐津文字太夫の養子。1世文字太夫の孫にあたる市川男女蔵の実子。前名3世小文字太夫。天保8 (1837) 年に4世文字太夫となった。嘉永3 (50) 年豊後大掾を受領。万延1 (60) 年立三味線岸沢古式部側と不和になり,岸沢派が脱退独立した。のち隠居して松寿斎文中と名のった。

常磐津文字太夫(6世)
ときわずもじたゆう[ろくせい]

[生]嘉永4(1851)
[没]1930
常磐津節の家元。初め三味線方。太夫に転向して尾花,浪花太夫などと名のった。 1888年7世小文字太夫 (のちの林中) が離縁されたあと,家元文中 (4世文字太夫の庶子佐六の未亡人) の養子となった。8世小文字太夫を経て 1902年6世文字太夫,26年豊後大掾。

常磐津文字太夫(2世)
ときわずもじたゆう[にせい]

[生]享保16(1731)
[没]寛政11(1799)
常磐津節の家元。通称藤兵衛。1世常磐津文字太夫の弟子。前名は1世兼太夫。天明7 (1787) 年家元の養子となって2世文字太夫を襲名。宝暦6 (1756) 年生れとの説もある。

常磐津文字太夫(5世)
ときわずもじたゆう[ごせい]

[生]文政5(1822)
[没]明治2(1869)
常磐津節の家元。4世常磐津文字太夫の養子。本名林之助。前名清元琴太夫。4世小文字太夫を経て,安政5 (1858) 年5世文字太夫を継いだが,のちに離縁。分家して6世兼太夫を名のる。

常磐津文字太夫(8世)
ときわずもじたゆう[はっせい]

[生]1918
[没]1991.3.19. 東京
常磐津節の家元。7世常磐津文字太夫の実子。本名常岡晃。 10世小文字太夫を経て 1951年8世文字太夫となった。その後,8世の実子が9世を継いだ。

常磐津文字太夫(7世)
ときわずもじたゆう[ななせい]

[生]1896
[没]1951
常磐津節の家元。6世常磐津文字太夫の養子。本名常岡鉱之助。6世文字太夫の義弟,小松太夫の次男。 1925年9世小文字太夫,翌年7世文字太夫を継いだ。

常磐津文字太夫(3世)
ときわずもじたゆう[さんせい]

[生]寛政4(1792)
[没]文政11(1828)
常磐津節の家元。2世常磐津文字太夫の実子。前名2世小文字太夫。文政 11年3世文字太夫を継いだが,同年没。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「常磐津文字太夫」の解説

常磐津文字太夫(4代) ときわず-もじたゆう

1804-1862 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
文化元年生まれ。初代市川男女蔵(おめぞう)の次男。文政3年常磐津節の3代文字太夫未亡人の養子となり,3代小文字太夫。4代市川門之助をへて天保(てんぽう)8年4代文字太夫を襲名。嘉永(かえい)3年豊後大掾(ぶんごのだいじょう)藤原昶光を名のる。万延元年立三味線の4代岸沢古式部と不和になり,古式部は独立した。文久2年閏(うるう)8月8日死去。59歳。江戸出身。号は松寿斎文中。

常磐津文字太夫(6代) ときわず-もじたゆう

1851-1930 明治-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
嘉永(かえい)4年生まれ。三味線方から語りに転じ,浪花(なにわ)太夫を名のる。明治21年常磐津節の家元(6代小文字太夫)の未亡人の養子となる。8代小文字太夫をへて35年6代を襲名。大正15年引退,2代豊後大掾(ぶんごのだいじょう)を名のった。昭和5年2月15日死去。80歳。本名は常岡丑五郎。旧姓は真田。

常磐津文字太夫(初代) ときわず-もじたゆう

1709-1781 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
宝永6年生まれ。常磐津節の創始者。京都の仏具商。宮古路国太夫半中(豊後掾(ぶんごのじょう))の弟子。初名は右膳。師とともに江戸にいき,宮古路文字太夫を名のる。豊後節禁圧のため師が京都へもどった後も江戸にとどまり,延享4年常磐津節として独立した。安永10年2月1日死去。73歳。通称は駿河屋文右衛門。

常磐津文字太夫(5代) ときわず-もじたゆう

1822-1869 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
文政5年生まれ。はじめ清元をまなび琴太夫を名のる。天保(てんぽう)7年常磐津節の4代文字太夫の養子となり2代林之助と改名。4代小文字太夫をへて安政5年5代を襲名するが,のち離縁となり別家して6代兼太夫を名のった(新場の兼太夫)。明治2年2月29日死去。48歳。通称は越後茂兵衛。

常磐津文字太夫(2代) ときわず-もじたゆう

1731-1799 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
享保(きょうほう)16年生まれ。初代常磐津文字太夫の門にはいり,鐘太夫,初代兼太夫をへて天明7年2代を襲名。寛政11年跡目相続争いから弟の2代兼太夫を破門し,実子に家元をつがせた。同年7月8日死去。69歳。享年には44歳説もある。通称は越後屋佐六,藤兵衛。

常磐津文字太夫(7代) ときわず-もじたゆう

1897-1951 大正-昭和時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治30年2月2日生まれ。常磐津節の6代文字太夫の妻の甥(おい)小政太夫の次男。6代の養子となり,9代小文字太夫をへて大正15年7代を襲名した。昭和26年5月4日死去。54歳。東京出身。本名は常岡鉱之助。

常磐津文字太夫(8代) ときわず-もじたゆう

1918-1991 昭和-平成時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大正7年8月17日生まれ。常磐津節の7代常磐津文字太夫の長男。昭和23年10代小文字太夫となり,26年8代を襲名した。平成3年3月19日死去。72歳。東京出身。日本俳優学校卒。本名は常岡晃(あきら)。

常磐津文字太夫(3代) ときわず-もじたゆう

1792-1820* 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
寛政4年生まれ。常磐津節の2代常磐津文字太夫の子。寛政11年8歳で2代小文字太夫となる。文政2年7月3代文字太夫を襲名したが,同年12月1日28歳で早世した。幼名は林之助。

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百科事典マイペディア 「常磐津文字太夫」の意味・わかりやすい解説

常磐津文字太夫【ときわづもじだゆう】

常磐津節演奏家の芸名。9世まである。初世〔1709-1781〕は常磐津節の始祖。京都の仏具商人の息子。俗称駿河屋文右衛門。宮古路豊後掾(ぶんごのじょう)の高弟。豊後節禁止によって豊後掾が京都へ帰った後も江戸にとどまり,豊後節再興に力を尽くした。
→関連項目常磐津節

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367日誕生日大事典 「常磐津文字太夫」の解説

常磐津 文字太夫(8代目) (ときわづ もじたゆう)

生年月日:1918年8月17日
昭和時代;平成時代の浄瑠璃太夫
1991年没

常磐津 文字太夫(7代目) (ときわづ もじたゆう)

生年月日:1897年2月2日
大正時代;昭和時代の浄瑠璃太夫
1951年没

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世界大百科事典(旧版)内の常磐津文字太夫の言及

【都の錦】より

…ともに1865年(慶応1)柳糸亭三楽編著刊。《都の錦》(角書〈音曲道しるべ〉)は宮古路豊後掾の秘伝を初世常磐津文字太夫が書きとめ,写本として伝わっていたもので,浄瑠璃の語り方についての指導に重点がおかれている。《老の戯言》(角書〈三味線早稽古〉)は常磐津節の旋律型について具体的に説明したものであり,このほうが資料的価値が高い。…

【三世相錦繡文章】より

…1857年(安政4)7月江戸中村座初演。常磐津豊後大掾(4世常磐津文字太夫),常磐津小文字太夫,三味線4世岸沢古式部(5世岸沢式佐),6世岸沢式佐らの全段出語り。配役はお園を2世片岡我当,福島屋清兵衛を市川猿三郎,梶野長庵を関歌助,福清女房おかぢを5世嵐小六,六三郎を2世沢村訥升ほか。…

【常磐津節】より

…流祖宮古路豊後掾は帰京してしまうが,江戸にとどまった有力な門弟のうち,豊後掾の養子となった宮古路文字太夫は43年(寛保3)から再び劇場に出演し,豊後節にくふうを加えて一流を創始した。47年(延享4)姓を関東としたが幕府より差し止められ,再度改めて常磐津文字太夫を名のり,志妻,小文字両太夫,三味線初世佐々木市蔵を連れて中村座に出演,ここに常磐津節が成立した。
[展開]
 常磐津節成立の翌年,常磐津小文字太夫は独立して富本節を創始,以後両者はつねに勢力を競うことになる。…

※「常磐津文字太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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