茨城県南西部に位置する市。2006年(平成18)水海道市(みつかいどうし)が結城(ゆうき)郡石下町(いしげまち)を編入し、常総市と改称した。市のほぼ中央を鬼怒川(きぬがわ)、東境を小貝(こかい)川が南流し、市域の東部は両川の沖積低地、西部は丘陵地である。関東鉄道常総線と国道294号、354号が通じ、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の常総インターチェンジがある。鬼怒川西岸台地には大生郷(おおのごう)遺跡ほか縄文遺跡が多い。平将門(まさかど)の父良将(良持)は、903年(延喜3)向石下(むこういしげ)に館を構えたという。11世紀末ころ、市域の大部分が所属した下総国(しもうさのくに)豊田郡は常陸大掾(だいじょう)氏一族の石毛氏(のちに豊田氏)に与えられ、以降小貝川沿いの豊田城と、支城の石毛城に拠る豊田氏の勢力下にあった。市内には鎌倉末期から戦国時代にかけての板碑が数多く分布する。寛永年間(1624~1644)関東郡代伊奈氏によって鬼怒川・小貝川沿岸低地の開発が進められ、多くの新田村が成立。また鬼怒川を利根川と直結して、江戸と下総、下野(しもつけ)、会津(あいづ)方面とを結ぶ水上輸送が発展、水海道、三坂(みさか)などに河岸が設けられた。水海道河岸には六斎市が立ち、江戸文化も流入して、地方文化の拠点となった。明治時代以降は絹綿交織の石毛紬(つむぎ)が名声を博した。
現在、東部の低地部は広大な水田地帯で、西部丘陵地には集落や畑地、平地林が広がっている。住宅団地や工業団地、ゴルフ場なども造成され、近郊整備地帯として都市機能の強化も図られている。大生郷天満宮は県指定文化財の三十六歌仙絵、北野天神縁起絵巻などを所蔵。大塚戸町(おおつかとまち)の一言主(ひとことぬし)神社の大祭(9月13日)には「大塚戸の綱火」(県指定無形文化財)が奉納され、大勢の参拝客で賑わう。ほかに怪談『累ヶ淵(かさねがふち)』ゆかりの法蔵寺、豪農の坂野家住宅(国指定重要文化財)、小説『土』の著者長塚節(ながつかたかし)の生家(県指定史跡)などの観光名所がある。旧水海道市域は近年、映画やドラマの撮影場所としてよく利用されているが、常総フィルムコミッション(旧、水海道フィルムコミッション)はロケーション撮影の誘致活動を積極的に行っている。面積123.64平方キロメートル、人口6万0834(2020)。
[編集部]
茨城県南西部の市。2006年1月水海道(みつかいどう)市が石下(いしげ)町を編入,名称を変更した。人口6万5320(2010)。
常総市北部の旧町。旧結城郡所属。人口2万4669(2005)。中央を鬼怒川,東縁を小貝川が南流し,東半部は低地,西半部は台地となる。中心集落の石下は近世は鬼怒川水運の河岸として栄えた。有力な地場産業である絹綿交織の石下紬は,200年ほど前に農家の副業としてはじまり,明治中ごろに工場生産が行われて生産が拡大した。農業では米作と並びスイカなどの野菜栽培が盛ん。鬼怒川西岸の国生(こつしよう)は長塚節の出身地で,小説《土》の舞台となった。関東鉄道常総線が通じる。
執筆者:千葉 立也
常総市中南部の旧市。1954年市制。人口4万1867(2005)。鬼怒川下流に位置し,常総台地上に市街が開ける。江戸時代初期の利根川・鬼怒川改修工事によって江戸との舟運が活発となり,常総各地の物資集散地として急速に発達,六斎市も立った。明治10年代から大正初期までは利根運河,江戸川経由で外輪蒸気船が東京まで通った。1914年常総鉄道(現,関東鉄道常総線)の開業で舟運は衰退したが,商業的機能は存続し,地方商業都市となっている。東部の小貝川沖積地での米作のほか,台地上での野菜,花卉栽培が盛んで,昭和40年代からは内陸型企業の工業団地も造成されている。東京都心から50km圏内にあり,常磐自動車道の開通,常総線の複線化,つくばエクスプレス線の開通などによって首都通勤圏の住宅地化が著しい。
執筆者:中川 浩一
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