日本歴史地名大系 「平城宮跡」の解説
平城宮跡
へいじようぐうあと
現
この地域が平城宮跡にあたることは、幕末、北浦定政によって確かめられ、明治時代になって関野貞によってさらに詳細に平城京の復原研究が行われた。宮跡は奈良山から南になだらかに下がる丘陵部の先端に位置し、北に
平城宮は、このような丘陵地帯の高地部分を削り、低地を埋立てて造成された土地に建設された。宮は朱雀大路の北端中央の四坊分と、その東に接する半坊分の東院地区からなる。宮は基底幅三メートルの築地大垣によって囲まれ、その外側一〇メートルの所に幅三メートルの外堀(これらは同時に宮周辺を走る大路の側溝でもある)をめぐらしていた。宮の四面には各々三門ずつの宮城門があったと推測されているが、東面と北面については東院との関係上あるいは地勢上問題があり、今後の調査課題である。そのうち発掘調査で規模および位置が確認されたのは朱雀門(南面中央)・
平城宮の内部の施設は大きく分けて四つの部分から構成されている。第一は天皇およびその一族の居住空間である内裏、第二は政治・儀式の場である朝堂院、第三は内裏・朝堂院を取巻く官衙区域、第四は東へ張出した部分にある東院がそれである。これらの区画のうち、内裏と朝堂院とは平城宮の正面門である朱雀門通の中軸線に沿って建てられていず、南面東門である
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報