平岡吟舟(読み)ひらおかぎんしゅう

改訂新版 世界大百科事典 「平岡吟舟」の意味・わかりやすい解説

平岡吟舟 (ひらおかぎんしゅう)
生没年:1856-1934(安政3-昭和9)

実業家で,三味線音楽の東明節とうめいぶし)の創始者。本名煕(ひろし)。江戸の生れ。1871年(明治4)アメリカに留学して汽車の車両製造技術を学び,77年に帰国。78年に工部省鉄道局に入り,83年,新橋鉄道局汽車課長に就任する。90年ころから独立して平岡鉄工場を経営し,鉄道車両を製造するなど,鉄道工業の先駆者として活躍した。一方邦楽を愛好した両親と,母方伯父である一中節の名人都以中(みやこいつちゆう)の影響で,一中節,謡曲清元など各種の邦楽曲に精通河東節山彦秀翁(11世十寸見(ますみ)河東)を後援するなどの趣味人でもあった。こうしたことから晩年は芸能に力を入れ,1902年伝統的な三味線音楽の長所をとった新歌曲を作詞作曲し,東明節を創始した。28年ころからは東明流改称。代表作に《大磯八景》《向島八景》《都鳥》《東明獅子》などがある。東明節の創始は2世稀音家浄観(きねやじようかん),2世清元寿兵衛(3世清元梅吉),大和楽(やまとがく)の清元栄寿郎などに影響を与えた。また,アメリカから帰国後,日本最初の野球チーム〈新橋アスレチック・クラブ〉をつくって日本の初期野球の基礎をつくったのをはじめ,ローラースケートの道具を持ち帰って普及に努めるなど,その多彩な活動で築いた財を一代で散じ,〈平岡大尽〉などとも呼ばれた。
東明節
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20世紀日本人名事典 「平岡吟舟」の解説

平岡 吟舟
ヒラオカ ギンシュウ

明治〜昭和期の実業家,邦楽作曲家 平岡鉄工場経営者;東明流初代家元。



生年
安政3年(1856年)

没年
昭和9(1934)年5月6日

出生地
江戸

本名
平岡 煕(ヒラオカ ヒロシ)

経歴
明治4年16歳で渡米、ボストン機関車製造所に勤め、技術・工程を学んで10年帰国。工部省技官となり、16年新橋鉄道局汽車課長に就任。日本に初めて野球とローラースケートをもたらし、11年新橋駅で野球チーム・新橋アスレチックス倶楽部を結成。32歳のとき車両製造工場・平岡鉄工場を設立、巨利を得た。米国から最新の野球用具やルールブックを輸入し、野球の発展に多大な影響を及ぼした。昭和34年には特別表彰として野球殿堂入り。一方、父は幕府目付役で宝生流謡曲をよくし、母は都以中の妹で邦楽に堪能という家に育ったので趣味は豊か、音曲、遊芸に通じ、散財したので“平岡大尽”といわれた。明治35年以来長唄、清元、河東など諸派の粋を集め、自ら「向島八景」「大磯八景」「都鳥」などを作詞作曲、三味線の東明流(東明節)を創始した。また小唄「三つ車」「半染」「春霞」「逢ふて別れて」なども作った。先祖は徳川家康のお庭番。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「平岡吟舟」の意味・わかりやすい解説

平岡吟舟
ひらおかぎんしゅう
(1856―1934)

三味線音楽東明(とうめい)流の創始者。本名平岡凞(ひろし)、江児庵吟舟と号す。1871年(明治4)森有礼(ありのり)とともに渡米、鉄道機関車車両製造の技術を学び、77年帰国、87年車両製造の平岡工場を東京・本所錦糸堀(きんしぼり)に創設した鉄道工業の先駆者。実業家として名をはせ、巨利を得たその富を遊芸、趣味道楽に散じたので平岡大尽とよばれた。河東(かとう)節の復興に尽力し、広く邦楽各流を学び、1902、03年(明治35、36)ごろから江戸音曲中気に入った節調をもとにくふうを凝らして新曲をつくり、東明節と名づけ、のち東明流と称した。落ち着いた曲風と品のよいのが特色で、門流の名取名には唄方に舟、三味線方に吟の字を冠する。また小唄(こうた)の作詞、作曲にも長じ、多くの佳作がある。ベースボールの最初の輸入者でもあった。

[林喜代弘]

『高橋義雄著『平岡吟舟翁と東明曲』(1934・秋豊園)』

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朝日日本歴史人物事典 「平岡吟舟」の解説

平岡吟舟

没年:昭和9.5.6(1934)
生年:安政3(1856)
明治から昭和にかけての実業家,東明節の創始者。本名煕。16歳で渡米,ボストンの機関車製造所で一職工として働き,技術・工程を学び,22歳で帰国して工部省に入る。32歳ではじめた車輛製造工場で巨利を得,平岡大尽といわれた。小唄では「三つの車」「半染」などを作曲。明治35(1902)年に「向島八景」続いて「大磯八景」という中編の曲を作詞作曲,一派をたてて東明節を名乗った。なお,アメリカでおぼえた野球を,帰国後同僚たちに教え,明治11年,日本人としては初めて本格的な野球チーム(新橋クラブ)を組織,15年には野球場を新設,野球の普及に尽力した。<参考文献>高橋義雄『平岡吟舟翁と東明曲』

(竹内道敬)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平岡吟舟」の意味・わかりやすい解説

平岡吟舟
ひらおかぎんしゅう

[生]安政3(1856).江戸
[没]1934.5.6. 東京
東明流および小唄の作詞,作曲家。本名煕 (ひろし) 。車両製造業を営み,実業家として鉄道の建設などに貢献し,野球を日本に紹介するなど多方面に活躍する一方,小唄の作詞,作曲を行い,1902年には邦楽諸流派の長所を取入れて東明節 (東明流) を創始した。代表作,小唄『逢ふて別れて』,東明流『大磯八景』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平岡吟舟」の解説

平岡吟舟 ひらおか-ぎんしゅう

平岡煕(ひらおか-ひろし)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の平岡吟舟の言及

【東明節】より

…三味線音楽の種目名。鉄道工業の先駆者,平岡熙(ひろし)(平岡吟舟)が創始した。彼は1877年アメリカから帰国後,汽車の車両製造をはじめる一方,河東節(かとうぶし)の山彦秀翁(11世十寸見(ますみ)河東)を後援してその復興に力を尽くしたが,謡曲,一中節,清元なども学び,みずからくふうして各種の新作を発表した。…

【野球】より

…73年にはA.ベーツが芝の開拓使仮学校で学生の試合を指導した。77年アメリカ留学から帰国した鉄道技師の平岡吟舟(熙(ひろし))が本場仕込みの野球を紹介,翌78年には外国人技師もまじえたチーム〈新橋俱楽部〉(愛称はアスレチックス)を組織し,ユニフォームをつけて試合を行った。また平岡の知遇のあるスポルディングから各種の用具の寄贈を受け,専用グラウンドもつくって気をはいたが,87年に平岡の退職とともに解散した。…

※「平岡吟舟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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