デジタル大辞泉
「清元梅吉」の意味・読み・例文・類語
きよもと‐うめきち【清元梅吉】
清元節三味線方。
(2世)[1854~1911]初世の門弟。江戸の生まれ。立三味線として活躍。「三千歳」「隅田川」などを作曲。
(3世)[1889~1966]2世の子。大正11年(1922)家元から分離、清元流(梅吉派)を創立。のち2世寿兵衛と改名。「津山の月」「お夏狂乱」などを作曲。
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きよもと‐うめきち【清元梅吉】
- 邦楽家。清元三味線方。
- [ 一 ] 二世。初世の門弟。四世、五世延寿太夫の立三味線をつとめ、名人と称される。作曲にもすぐれ、「三千歳(みちとせ)」「雁金」「隅田川」などを残した。安政元~明治四四年(一八五四‐一九一一)
- [ 二 ] 三世。二世の子。五世延寿太夫の相三味線をつとめた。のちに、清元流(梅吉派)を創立し、家元となる。「津山の月」「お夏狂乱」などを作曲。明治二二~昭和四一年(一八八九‐一九六六)
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清元梅吉
きよもとうめきち
清元節三味線方。3世以後は清元流家元名。
(1841―1907)本名藤間藤次郎。銀座の清元梅次郎に入門、梅吉を名のる。のちに清元寿兵衛と改名、2世を門弟の梅三郎に譲り、芸界から引退した。ちなみに実子の藤吉は清元の三味線方となり、後年太兵衛を名のり、孫の吉太郎が長唄(ながうた)の杵屋(きねや)栄二となった。
(1854―1911)本名松原清吉。10歳のとき初世に入門、梅三郎を名のり、のちに2世を襲名した。演奏作曲にも優れ、4世、5世清元延寿太夫(えんじゅだゆう)の相三味線を勤め、『雁金(かりがね)』『三千歳(みちとせ)』『隅田川(すみだがわ)』などの代表作を残した。
(1889―1966)本名松原清一。2世が4世延寿太夫の長女はるをめとり、その実子として生まれた。1911年(明治44)3世を襲名し、5世延寿太夫の立(たて)三味線を勤めていたが、1922年(大正11)決別して清元流を創設、家元となって喜久太夫、女婿梅寿太夫の相三味線として活躍した。1950年(昭和25)芸術院会員となり、1955年に2世寿兵衛を継承、翌年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、1962年文化功労者となった。
(1932―2023)本名松原清之介。3世の孫。1955年4世を襲名した。奏風楽という新ジャンルを提唱、この後継には清元紫葉(しよう)がいる。3世より清元流家元として独立したが、清元協会創立に参加、大合同なったと思われたが、その後はまた独自の道を歩むことになった。別称梅派、また3世の住居であった地名をとって赤坂派ともいう。2013年(平成25)重要無形文化財保持者に認定、2015年旭日小綬章(きょくじつしょうじゅしょう)を受章。
[林喜代弘・守谷幸則]
『町田佳聲・植田隆之助著『清元寿兵衛』(1967・邦楽と舞踊出版部)』
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清元梅吉 (きよもとうめきち)
清元三味線方。3世以降は清元流の家元。(1)初世(1841-1907・天保12-明治40) 本名藤間藤次郎。1884年梅吉から寿兵衛と改名。作曲作品に《宮比御神楽(みやびのみかぐら)》などがある。実子の藤次郎(1873-1937)は清元太兵衛となり清水派を立てたが一代で終わった。(2)2世(1854-1911・安政1-明治44) 本名松原清吉。初世の門弟。初名梅三郎。1884年梅吉をつぐ。妻は4世延寿太夫の娘。4世・5世延寿太夫の立三味線で名人といわれた。作曲作品に《三千歳(みちとせ)》《雁金(かりがね)》《隅田川》《青海波(せいがいは)》などがある。(3)3世(1889-1966・明治22-昭和41) 本名松原清一。2世の実子。初名2世梅三郎。1911年梅吉をつぐ。5世延寿太夫の三味線を弾いたが,22年に不和となり,独立して清元流(俗に梅吉派)を名のり家元となる。55年2世寿兵衛。作品に《津山の月》《お夏狂乱》などがある。日本芸術院会員,重要無形文化財保持者。(4)4世(1932- /昭和7- )本名松原清之介。3世の孫。55年梅吉をつぐ。
執筆者:竹内 道敬
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清元 梅吉(3代目)
キヨモト ウメキチ
明治〜昭和期の清元節三味線方 清元流梅吉派家元。
- 生年
- 明治22(1889)年12月27日
- 没年
- 昭和41(1966)年6月1日
- 出生地
- 東京
- 本名
- 松原 清一
- 別名
- 前名=清元 梅三郎(2代目),後名=清元 寿兵衛(2代目)(キヨモト ジュヘエ)
- 主な受賞名〔年〕
- 文化功労者〔昭和37年〕
- 経歴
- 明治38年2代目梅三郎を名乗り、44年父・2代目梅吉亡きあと、直ちに3代目を襲名、長らく5代目清元延寿太夫の立三味線を務めた。大正11年に不和を生じ、独立して新たに清元流(俗に梅吉派)を創始。昭和25年芸術院会員、31年人間国宝に選ばれ、37年には文化功労者となる。30年からは2代目寿兵衛を名乗った。代表作に「津山の月」「お夏狂乱」「峠の万歳」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
清元 梅吉(2代目)
キヨモト ウメキチ
- 職業
- 清元節三味線方
- 本名
- 松原 清吉
- 別名
- 前名=清元 梅三郎(初代)
- 生年月日
- 嘉永7年 5月20日
- 出生地
- 江戸・神田(東京都 千代田区)
- 経歴
- 初代清元梅吉の高弟。慶応元年12歳で初舞台。明治3年2代目梅吉を襲名し、4代及び5代目の延寿太夫の立三味線をつとめた。作曲にも長じ、「三千歳」「雁金」「隅田川」などがある。
- 没年月日
- 明治44年 5月14日 (1911年)
- 家族
- 息子=清元 寿兵衛(2代目 3代目梅吉)
- 親族
- 義父=清元 延寿太夫(4代目),義母=清元 お葉
清元 梅吉(初代)
キヨモト ウメキチ
- 職業
- 清元節三味線方
- 本名
- 藤間 藤次郎
- 別名
- 後名=清元 寿兵衛(キヨモト ジュヘエ)
- 生年月日
- 天保12年
- 経歴
- 清元梅次郎の門下となり、梅吉を名乗る。慶応初年より師の上調子を務め、のち立三味線に昇進。明治3年高弟・梅三郎に梅吉の名を譲り、寿兵衛に改名。作曲に「宮比郷神楽」など。
- 没年月日
- 明治40年 2月1日 (1907年)
- 家族
- 息子=清元 太兵衛(3代目)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
清元梅吉【きよもとうめきち】
清元節三味線方の芸名。初世〔1841-1907〕は清元梅次郎の門弟。《宮比神楽(みやびかぐら)》などを作曲。2世〔1854-1911〕は初世の門弟。4世・5世延寿太夫の立三味線を務め,名人として知られた。《雁金(かりがね)》《隅田川》《青海波(せいがいは)》《三千歳(みちとせ)》などを作曲。3世〔1889-1966〕は2世の実子。5世延寿太夫の立三味線を務めたが不和となり,独立して一派を立てた。《お夏狂乱》などを作曲。1955年寿兵衛(2世)と改名。1950年芸術院会員。1956年人間国宝。1962年文化功労者。4世〔1932-〕は1955年襲名。
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清元梅吉(2代)
没年:明治44.5.14(1911)
生年:安政1.5.20(1854.6.15)
幕末明治期の清元節の三味線方。江戸神田(または京橋)生まれ。本名松原清吉。初代梅吉の高弟ではじめ梅三郎といった。慶応1(1865)年10月江戸中村座にわずか12歳で初舞台を勤め,明治3(1870)年2代目梅吉を襲名。「名家真相録」(『演芸画報』1908年12月号)や3代目梅吉の自伝『想ひだすまゝ』(1937)からひく明治17年襲名説は誤り。「三千歳」「雁金」「隅田川」「青海波」「曾我菊」など明治の代表作を作曲,4・5代目清元延寿太夫の立三味線を弾き,梅吉の名を世に高めた。妻は4代目延寿太夫の長女はる。実子はのちに清元流(俗に梅吉派)を樹立した3代目梅吉。
清元梅吉(初代)
没年:明治40.2.1(1907)
生年:天保12(1841)
幕末明治期の清元節の三味線方。藤間流の踊り師匠の子で,清元梅次郎の門弟。音はいまひとつだが,すこぶる達者な芸だったという。芝居の番付によると,慶応3(1867)年に名を寿兵衛と改め,明治3(1870)年,新進気鋭の高弟梅三郎に梅吉の名を譲った。8年「宮比御神楽」を作曲。晩年廃業したとも。実子は3代目清元太兵衛を名乗り,別派の清水派を立てたが一代で絶えた。その子は長唄三味線方で人間国宝の杵屋栄二。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
清元梅吉(4代) きよもと-うめきち
1932- 昭和後期-平成時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
昭和7年8月7日生まれ。清元節。祖父3代清元梅吉にまなび,昭和30年4代清元梅吉を襲名,41年清元流(梅吉派)家元をつぐ。以後,清元三味線方として活躍する一方,舞踊曲,清元小曲,小唄などの作曲を手がける。平成19年伝統文化ポーラ賞優秀賞。25年人間国宝。東京出身。暁星中卒。本名は松原清之介。
清元梅吉(3代) きよもと-うめきち
1889-1966 明治-昭和時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
明治22年12月27日生まれ。2代清元梅吉の子。清元節。明治44年3代目をつぐ。5代清元延寿太夫の立三味線をつとめるが,大正11年に清元流(梅吉派)をたて,家元となる。昭和30年2代寿兵衛と改名。37年文化功労者。芸術院会員,人間国宝。「津山の月」「お夏狂乱」など作曲作品もおおい。昭和41年6月1日死去。76歳。東京出身。本名は松原清一。
清元梅吉(2代) きよもと-うめきち
1854-1911 明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
嘉永(かえい)7年5月20日生まれ。清元節。初代梅吉の弟子。はじめ梅三郎と名のり,明治3年2代梅吉をつぐ。4代・5代清元延寿太夫の立三味線となり,名をたかめる。「青海波(せいがいは)」「隅田川」「雁金(かりがね)」など作曲作品もおおい。明治44年5月14日死去。58歳。江戸出身。本名は松原清吉。
清元梅吉(初代) きよもと-うめきち
1841-1907 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
天保(てんぽう)12年生まれ。清元太兵衛(たへえ)の父。清元節。清元梅次郎の門弟。慶応3年梅吉から寿兵衛とあらためる。明治40年2月1日死去。67歳。本名は藤間藤次郎。作品に「宮比御神楽(みやびのみかぐら)」。
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清元梅吉(3世)
きよもとうめきち[さんせい]
[生]1889
[没]1966
清元節三味線方。2世清元梅吉の実子。本名松原清一。 1911年梅吉を襲名。5世延寿太夫の三味線方となったが,22年延寿太夫と不和になり,分離独立して「清元流」 (俗称「梅吉派」) を創設し家元となる。 55年,2世寿兵衛となる。『津山の月』『お夏狂乱』『幻お七』など,作曲多数。
清元梅吉(2世)
きよもとうめきち[にせい]
[生]安政1(1854)
[没]1911
清元節三味線方。本名松原清吉。1世清元梅吉の高弟。初名梅三郎。 1884年梅吉を襲名。4世・5世延寿太夫の立三味線。『三千歳 (みちとせ) 』『雁金』『隅田川』『青海波 (せいがいは) 』などを作曲。
清元梅吉(4世)
きよもとうめきち[よんせい]
[生]1932.8.7.
清元節三味線方。3世清元梅吉の孫。父は梅寿太夫。本名松原清之介。祖父および父に師事し,梅太郎を経て 1955年襲名。松原奏風の名で「奏風楽」を創始。
清元梅吉(1世)
きよもとうめきち[いっせい]
[生]天保12(1841)
[没]1907.2.1.
清元節三味線方。本名藤間藤次郎。清元梅次郎の門弟。 1884年梅吉から寿兵衛に改名。『宮比神楽』を作曲。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
清元 梅吉(3代目) (きよもと うめきち)
生年月日:1889年12月27日
明治時代-昭和時代の浄瑠璃三味線方
1966年没
清元 梅吉(2代目) (きよもと うめきち)
生年月日:1854年5月20日
明治時代の清元三味線方
1911年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の清元梅吉の言及
【島鵆月白浪】より
… 明治の新文物をとりこんだ[散切物]の代表作であるが,五幕目の〈招魂社鳥居前〉がとくに評判となった。望月邸の場のために2世[清元梅吉]により作曲された清元《雁金(かりがね)》(本名題《色増栬夕映(いろまさるもみじのゆうばえ)》)も名曲とされる。【林 京平】。…
【水天宮利生深川】より
…しかし世間の手前,正作は弟を警察へ引き渡す。二幕目〈幸兵衛狂気の場〉に清元順三郎(のちの2世[清元梅吉])作曲の清元《風狂(かぜにくるう)川辺の芽柳(めやなぎ)》(通称《筆幸》)を用い,菊五郎の写実的演技で好評をえた。新聞,警察などの新時代の社会相を巧みにとりこんだ風俗劇としても興味がもてる。…
【三千歳】より
…本名題《忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)》。作詞[河竹黙阿弥],作曲2世[清元梅吉](清元お葉の説もある)。1881年3月,5世[尾上菊五郎],8世[岩井半四郎]ほかで東京新富座初演。…
【お夏狂乱】より
…演技面のみならず,大道具,鳴物,鬘などにも逍遥の思想が反映された。同じ歌詞に3世[清元梅吉]が作曲した清元節の曲(1914)がある。【林 京平】。…
【猩々】より
…山田流箏曲には3世中能島松仙が移曲。また,高谷伸が補筆して3世[清元梅吉]が清元に移曲したものは,1954年4世井上八千代が振り付けた舞地として行われる。なお,別に3世八千代の振付によるものもあるが,[東明節]の曲で,能のキリの部分だけのもの。…
【平岡吟舟】より
…代表作に《大磯八景》《向島八景》《都鳥》《東明獅子》などがある。東明節の創始は2世[稀音家浄観](きねやじようかん),2世清元寿兵衛(3世[清元梅吉]),[大和楽](やまとがく)の清元栄寿郎などに影響を与えた。また,アメリカから帰国後,日本最初の野球チーム〈新橋アスレチック・クラブ〉をつくって日本の初期野球の基礎をつくったのをはじめ,ローラースケートの道具を持ち帰って普及に努めるなど,その多彩な活動で築いた財を一代で散じ,〈平岡大尽〉などとも呼ばれた。…
※「清元梅吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」