デジタル大辞泉
「十寸見河東」の意味・読み・例文・類語
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ますみ‐かとう【十寸見河東】
- 浄瑠璃河東節の太夫、家元。初世。河東節の祖。本名伊藤藤十郎。江戸日本橋の魚商の子。音曲を好み、半太夫節を学ぶ。さらに式部節、手品節を参酌し、享保元年(一七一六)河東節を樹立。貞享元~享保一〇年(一六八四‐一七二五)
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十寸見河東(初代)
没年:享保10.7.20(1725.8.27)
生年:貞享1(1684)
江戸前・中期の河東節の開祖。江戸太夫河東とも。本名伊藤藤十郎,号は酒好きであったことから酒乱漢をもじって「手欄干」。江戸日本橋品川町の魚商天満屋藤左衛門の子。遊び好きが高じて家産を傾け,江戸半太夫の門に入る。享保2(1717)年春,江戸市村座で自作の「松の内」を語り,大当たりをとった。このときから「江戸(半太夫)節を語る太夫」という意味で江戸太夫河東を名乗り,これを河東節の成立とする。ただしこのときはまだ河東節という名称はなく,半太夫節と呼ばれていた。『江戸節根元記』(1812)によると,このとき初代河東は師の半太夫と不和を生じ,別派を立てたとある。しかし河東節初期の正本集『鳰鳥(仁本鳥)』(1719)には江戸半太夫こと坂本梁雲が書いた序文があり,その中のレパートリーにも半太夫節と河東節の両方が収められていることなどから,不和説はとらない。初代河東は歌舞伎芝居にたびたび出演し,師の半太夫をしのぐ名声を得るとともに,三味線の名手初代山彦源四郎や初代河丈(のち2代目河東),夕丈(のち2代目江戸太夫藤十郎)といった優れた弟子を持ったことで,その語り物は今日にまで残ることとなった。一方,半太夫には優れた後継者が少なく,結局半太夫の語り物は河東節の中に吸収される形になった。現代では,河東節で最も有名な曲といえば歌舞伎十八番の内「助六」であるが,これは4代目河東の作。没日には13日説もある。<参考文献>斎藤月岑『声曲類纂』,「十寸見声曲編年集」(『三田村鳶魚未刊随筆百種』10巻),竹内道敬『河東節二百五十年』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
十寸見河東 (ますみかとう)
河東節の家元名で,江戸太夫河東ともいう。11世まであり初世がもっとも有名。11世以後は理事制をとる〈十寸見会〉が名義を保存している。初世(1684-1725)は河東節の祖。本名を伊藤藤十郎と伝える。江戸日本橋魚商の子で初世江戸半太夫の門に入り,半太夫節に手品節,式部節などを加えて1717年(享保2)春,江戸市村座で《松の内》を語って一派を樹立した。高弟に河丈(2世河東,?-1734),河洲(3世河東,?-1745)があり,初世山彦源四郎と河東節を完成させた。4世(?-1771)は3世の甥で,代表曲《助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)》を完成し,6世(1727-96)以降の劇場出演はこの曲以外は出演しなくなった。9世(1807-71)は中興の名人といわれ,追善曲を多く作曲した。
→河東節
執筆者:竹内 道敬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
十寸見 河東(11代目)
マスミ カトウ
- 職業
- 河東節太夫
- 肩書
- 河東節11代目家元
- 本名
- 伊藤 秀二郎
- 別名
- 初名=山彦 秀示,前名=山彦 秀次郎(4代目),山彦 秀翁(ヤマビコ シュウオウ)
- 生年月日
- 天保12年
- 出生地
- 江戸(東京都)
- 経歴
- 父は十寸見可慶こと9代目河東。明治5年4代目山彦秀次郎を襲名。山彦文子、山彦八重子ら多くのすぐれた弟子を育てた。20年頃山彦秀翁と改名。死後、11代目十寸見河東を追贈された。河東節を今日に伝えた功績者。
- 没年月日
- 大正8年 4月11日 (1919年)
- 家族
- 父=十寸見 河東(9代目),妻=十寸見 河東(10代目)
十寸見 河東(10代目)
マスミ カトウ
- 職業
- 河東節太夫
- 肩書
- 河東節10代目家元
- 別名
- 前名=十寸見 夕丈(マスミ セキジョウ)
- 経歴
- 河東節の家元で、11代家元山彦秀翁(のち11代目十寸見河東)の妻。前名十寸見夕丈。その死後10代目河東を贈られた。明治時代に活躍、美声、芸達者をうたわれた。
- 没年月日
- 大正2年 11月25日 (1913年)
- 家族
- 夫=山彦 秀翁(=11代目河東)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
十寸見河東(9世)
ますみかとう[きゅうせい]
[生]文化4(1807).江戸
[没]明治4(1871).3.20. 東京
河東節の家元。江戸太夫河東ともいう。伊東姓。4世山彦河良の門弟。3世山彦秀次郎,2世山彦紫存,2世十寸見東觚を経て,嘉永5 (1852) 年に5世十寸見河丈 (かじょう) となり,9世家元を名のったが,苦情が出たので翌々年剃髪して可慶と号す。没後9世河東を追贈。代表作『葵の上』『掛物揃』など。
十寸見河東(1世)
ますみかとう[いっせい]
[生]貞享1(1684).江戸
[没]享保10(1725).7.10. 江戸
河東節の家元。江戸太夫河東ともいう。1世江戸半太夫の門弟。本名伊藤藤十郎。手欄干 (しゅらんかん) と号す。半太夫節に式部節,手品節などを加えた河東節を享保2 (1717) 年に語りだした。作曲に『松の内』『神楽獅子』などがある。
十寸見河東(7世)
ますみかとう[ななせい]
[生]宝暦12(1762).江戸
[没]文政8(1825).11.24. 江戸
河東節の家元。江戸太夫河東ともいう。6世十寸見河東の門弟。通称伝蔵。2世蘭爾から3世沙洲を経て文化4 (1807) 年頃7世を継ぐ。同9 (1812) 年隠居して2世東雲となる。
十寸見河東(4世)
ますみかとう[よんせい]
[生]?
[没]明和8(1771).11.15. 江戸
河東節の家元。江戸太夫河東ともいう。3世十寸見河東の甥にあたり,その後養子となる。通称伝之助。前名2世十寸見河洲。延享2 (1745) 年4世を継ぐ。代表作『家桜』『助六由縁江戸桜』。
十寸見河東(11世)
ますみかとう[じゅういっせい]
[生]天保12(1841).江戸
[没]1919.4.11. 東京
河東節の家元。江戸太夫河東ともいう。9世十寸見河東の子。本名伊東秀二郎。4世山彦秀次郎,山彦秀翁。2世山彦文子ら,多くの後進を育てた。没後 11世河東を追贈。
十寸見河東(2世)
ますみかとう[にせい]
[生]?
[没]享保19(1734).3.5. 江戸
河東節の家元。江戸太夫河東ともいう。1世十寸見河東の弟子。通称下駄屋庄右衛門。前名十寸見河丈 (かじょう) 。享保 13 (1728) 年頃2世を継ぐ。代表作『水調子』。
十寸見河東(6世)
ますみかとう[ろくせい]
[生]享保12(1727)頃
[没]寛政8(1796).1.21. 江戸
河東節の家元。江戸太夫河東ともいう。3世十寸見河東の門弟。通称飴屋忠次郎。黒河東ともいう。前名十寸見蘭爾。代表作『常陸帯』『道成寺』。
十寸見河東(8世)
ますみかとう[はっせい]
[生]安永9(1780).江戸
[没]文政3(1820).10.26. 江戸
河東節の家元。江戸太夫河東ともいう。7世十寸見河東の門弟。本名大岩才助。東川,東洲から5世沙洲。没後8世河東を追贈された。
十寸見河東(3世)
ますみかとう[さんせい]
[生]?
[没]延享2(1745).7.21. 江戸
河東節の家元。江戸太夫河東ともいう。2世十寸見河東の門弟。通称菓子屋宇平次。前名十寸見河洲。代表作『乱髪夜編笠』。
十寸見河東(5世)
ますみかとう[ごせい]
[生]?
[没]安永5(1776).3.13. 江戸
河東節の家元。江戸太夫河東ともいう。3世十寸見河東の門弟。通称薪屋平四郎。前名十寸見沙洲。隠居して東雲と号す。
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十寸見河東(初代) ますみ-かとう
1684-1725 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
貞享(じょうきょう)元年生まれ。江戸の魚商天満屋藤左衛門の子。河東節の流祖。初代江戸半太夫の弟子。享保(きょうほう)2年江戸太夫河東を名のり一派をたてた。享保10年7月20日死去。42歳。姓は伊藤。通称は藤十郎。作品に「松の内」「神楽獅子」など。
十寸見河東(11代) ますみ-かとう
1841-1919 幕末-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
天保(てんぽう)12年生まれ。十寸見可慶の子。母は初代山彦文子(やまびこ-ぶんし)。4代山彦秀次郎を名のり,明治34年山彦秀翁とあらためた。大正8年4月11日死去。79歳。没後,11代河東をおくられた。本名は伊藤秀二郎。初名は山彦秀示。
十寸見河東(8代) ますみ-かとう
1780-1820 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
安永9年生まれ。江戸浅草の茶器商伊藤(または大岩)才助。7代河東の弟子。東川,東洲をへて4代沙洲となる。書画をよくした。文政3年10月26日死去。41歳。没後8代河東の名をおくられた。号は琴斎。
十寸見河東(7代) ますみ-かとう
1762-1826* 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
宝暦12年生まれ。6代河東の弟子。蘭示(爾),3代沙洲をへて,寛政11年7代河東を襲名。文化9年隠居して2代東雲を名のる。文政8年11月24日死去。64歳。通称は伝蔵。
十寸見河東(4代) ますみ-かとう
?-1771 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
3代十寸見河東の甥(おい)。延享2年河東節4代家元となる。作曲の名手。代表作「助六由縁(ゆかりの)江戸桜」は現在でも上演されている。明和8年11月15日死去。前名は河洲(2代)。通称は伝之助。
十寸見河東(6代) ますみ-かとう
1727-1796 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
享保(きょうほう)12年生まれ。江戸浅草の飴屋忠次郎。3代河東の弟子。安永5年河東節6代家元となる。黒河東といわれた。寛政8年1月21日死去。70歳。初名は蘭示(爾)。
十寸見河東(10代) ますみ-かとう
?-1913 明治-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
山彦秀翁(没後11代河東)の妻十寸見夕丈(せきじょう)が,大正2年11月25日の没後10代河東の名をおくられたといわれるが,夕丈には記録がすくなく,10代追贈にも異論がある。
十寸見河東(2代) ますみ-かとう
?-1734 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
河東節2代家元。江戸新吉原の下駄(げた)商庄右衛門。初代河東の筆頭弟子で,享保(きょうほう)13年ごろ2代をついだ。享保19年3月5日死去。初名は河常。前名は河丈(初代)。
十寸見河東(3代) ますみ-かとう
?-1745 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
河東節3代家元。江戸下谷の菓子商前川屋宇平次。2代河東の弟子で,師の没後3代を襲名。延享2年7月21日死去。前名は河洲。
十寸見河東(5代) ますみ-かとう
?-1776 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
河東節5代家元。江戸本郷の薪屋平四郎。3代河東の弟子。安永5年3月13日死去。前名は沙洲。号は東雲。
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世界大百科事典(旧版)内の十寸見河東の言及
【江の島】より
…(4)河東節の曲名。竹婦人(ちくふじん)作詞,初世十寸見(ますみ)河東作曲。江の島縁起による作品だが,現在は廃曲。…
【河東節】より
…1717年(享保2)2月に江戸太夫(十寸見(ますみ))河東が江戸市村座で《松の内》を語ったのをはじめとする。それ以前の江戸には,初め江戸肥前掾の肥前節,ついで弟子の[江戸半太夫]の半太夫節が流行したが,初世[十寸見河東]は江戸半太夫の弟子。以上の肥前節,半太夫節と河東節を江戸節といったが,河東節だけが今日に残り,江戸生れ江戸育ちの浄瑠璃という誇りをもっている。…
【砧】より
…【横道 万里雄】(2)河東(かとう)節の曲名で,《きぬた》と表記する。能の《砧》の一部を借りて[半太夫節]に作られていたのを,初世[十寸見(ますみ)河東]が河東節に移し古風な雰囲気を伝える。のち4世十寸見河東が1746年(延享3)にこの改作《常磐の声》を作ったが,廃曲。…
【半太夫節】より
…《[松の葉]》(1703),《若緑》(1706),《松の落葉》(1710)などによると,当時上方では,江戸を代表する浄瑠璃として,盛んに演奏されており,肥前節([江戸肥前掾]),河東節とともに[江戸節]ともいわれた。その曲節は主として弟子の初世[十寸見河東](ますみかとう)をへて河東節に伝わったが,その他の三味線音楽にも〈江戸〉または〈江戸がかり〉として,優雅で淡泊な雰囲気を出すときに使われている。半太夫節を移した曲として,河東節には《きぬた》《鑓踊(やりおどり)》《蓬萊(ほうらい)》などが,地歌の〈半太夫もの〉としては《意見曾我》などが伝わっている。…
【山彦源四郎】より
…初世[江戸半太夫]の弟子と伝える。1717年(享保2)初世[十寸見(ますみ)河東]と河東節創立に参加,以後4世河東まで弾き,河東節三味線のスタイルを確立した。その姓は,3世[石村近江]作の山彦銘の三味線を入手してからという。…
【熊野】より
…[西沢一鳳]の《皇都午睡》に,著者が山田検校のこの曲の演奏を聞きたがったことが記されている。(3)河東節 9世[十寸見河東]および5世[山彦河良]作曲。1849年(嘉永2)初演。…
【平岡吟舟】より
…実業家で,三味線音楽の東明節(とうめいぶし)の創始者。本名熙(ひろし)。江戸の生れ。1871年(明治4)アメリカに留学して汽車の車両製造技術を学び,77年に帰国。78年に工部省鉄道局に入り,83年,新橋鉄道局汽車課長に就任する。90年ころから独立して平岡鉄工場を経営し,鉄道車両を製造するなど,鉄道工業の先駆者として活躍した。一方,邦楽を愛好した両親と,母方の伯父である[一中節]の名人都以中(みやこいつちゆう)の影響で,一中節,謡曲,清元など各種の邦楽曲に精通,河東節の山彦秀翁(11世[十寸見(ますみ)河東])を後援するなどの趣味人でもあった。…
※「十寸見河東」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」