平岡浩太郎(読み)ひらおかこうたろう

改訂新版 世界大百科事典 「平岡浩太郎」の意味・わかりやすい解説

平岡浩太郎 (ひらおかこうたろう)
生没年:1851-1906(嘉永4-明治39)

明治期の国権主義的政治家実業家福岡生れ。戊辰戦争官軍従軍西南戦争に応じて挙兵したが失敗,懲役1年に処せられる。1879年,箱田六輔,頭山満らと向陽社筑前共愛会を結成し国会開設請願運動等を進める一方,九州民権派の大同団結を企てた。81年玄洋社の初代社長となったがすぐに辞任し,炭鉱経営で産をなした。第1次京城事件を利用して朝鮮に武装した民間人を送ろうとして失敗,大陸浪人の活動拠点を上海に設けようともした。条約改正問題で頭山らと反対運動を行い,また対露同志会などに加わって対露強硬論を唱えた。この間,川上操六の勧めで94年衆議院議員となり,98年の憲政党結成に尽力した。内田良平は甥にあたる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

20世紀日本人名事典 「平岡浩太郎」の解説

平岡 浩太郎
ヒラオカ コウタロウ

明治期の政治家,実業家 衆院議員(憲政本党);玄洋社社長;赤池炭山経営。



生年
嘉永4年6月23日(1851年)

没年
明治39(1906)年10月24日

出生地
筑前国福岡町(福岡県福岡市)

経歴
修猷館に学び、明治元年戊辰戦争で奥羽に従軍、10年西南戦争には謀叛組として挙兵を計画、投獄された。出獄後、自由民権運動で活動。12年頭山満らと向陽社を組織、14年玄洋社と改称し社長となった。16年以後、筑豊の赤池炭山を経営するなど炭鉱業に乗り出し産をなす。27年以来衆院議員に6回当選、29年進歩党、31年憲政党結党に奔走、憲政党分裂後は憲政本党(旧進歩党派)に属し、国権派のリーダーとして活動。36年対露同志会に参加、日露戦争で中国に渡り、大陸膨張主義を唱えた。また八幡製鉄、九州鉄道の創設などにも関わった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「平岡浩太郎」の解説

平岡 浩太郎
ヒラオカ コウタロウ


肩書
衆院議員(憲政党),玄洋社社長,赤池炭山経営

生年月日
嘉永4年(1851年)

出身地
筑前国福岡(福岡県)

経歴
修猷館に学び、明治元年戊辰の役で奥羽に従軍、10年西南の役には謀叛組として挙兵を計画、投獄された。出獄後自由民権運動で活動。12年筑豊の赤池炭山を経営。のち頭山満らと向陽社を組織、玄洋社と改称し社長となった。27年衆院議員に当選、29年進歩党、31年憲政党結党に奔走。36年対露同志会に参加、日露戦争で中国に渡り、大陸膨張主義を唱えた。

没年月日
明治39年10月

家族
曽孫=田中 健之(皇極社社主)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「平岡浩太郎」の解説

平岡浩太郎

没年:明治39.10.24(1906)
生年:嘉永4.6.23(1851.7.21)
明治期の国権派政治家。号玄洋。黒田藩(福岡県)藩士平岡仁三郎の次男。福岡町(福岡市)地行に生まれる。戊辰戦争には官兵として奥羽を転戦,西南戦争(1877)では薩軍に参加し懲役1年の刑を受ける。明治12(1879)年,箱田六輔,進藤喜平太らと向陽社を結成,筑前共愛会の運動を通じ国会開設,条約改正を主張するが,13年5月,玄洋社の創立に参画し,一時期社長を務めた。16年以後炭鉱業などで産をなし,27年以降福岡県選出の衆院議員となり憲政党創立に尽力した。条約改正問題,国民同盟会,対露同志会など,一貫して対外硬派的立場から大陸膨張政策を唱えた。<参考文献>石滝豊美『玄洋社発掘』

(上村希美雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平岡浩太郎」の解説

平岡浩太郎 ひらおか-こうたろう

1851-1906 明治時代の政治家。
嘉永(かえい)4年6月23日生まれ。平岡徳次郎の兄。西南戦争の際,福岡での挙兵に失敗して西郷軍にくわわり,懲役1年。明治12年頭山満(とうやま-みつる)らと向陽社を組織。14年には玄洋社を結成し社長となる。27年衆議院議員(当選6回)となり,31年の憲政党結成につくした。対外強硬論をとなえた国権派の代表。明治39年10月24日死去。56歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「平岡浩太郎」の解説

平岡 浩太郎 (ひらおか こうたろう)

生年月日:1851年6月23日
明治時代の実業家;政治家。衆議院議員;玄洋社社長
1906年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の平岡浩太郎の言及

【内田良平】より

…明治から昭和にわたる国家主義運動の指導者。福岡県に生まれ,叔父である玄洋社社長平岡浩太郎らの影響をうけ,青年時代から朝鮮,中国への日本の勢力拡大に強い関心をもった。1901年黒竜会を結成,03年対露同志会に参加,ロシアとの開戦を主張,日露戦争後は韓国の日韓合邦推進団体である一進会とともに,日韓併合実現に奔走した。…

【右翼】より

…この言葉は,その性格上,客観的記述のためより相手方への評価をこめた政治用語として使われることが多い。【坂本 多加雄】
[日本の右翼]
 日本の右翼運動は,明治政府の欧化政策に反対するため,士族反乱や自由民権運動と結んで反政府運動を展開していた平岡浩太郎や頭山満らが,1879年に向陽社を結成し,81年にそれを玄洋社と改称したときに開始された。やがて玄洋社は自由民権運動からはなれ,条約改正即時断行,日清開戦,大陸への進出などの対外強硬策を主張する国家主義団体に成長していった。…

【玄洋社】より

…明治維新後,没落した旧福岡藩士中の不平分子は専制政府打倒を唱え,各地の不平士族の武力蜂起への同調を企てる一方,板垣退助の立志社にならって民権伸張を論じていた。1876年の萩の乱への参加計画が失敗し,翌年の西南戦争に応じた挙兵も鎮圧されると,彼らは箱田六輔,平岡浩太郎,頭山満らを中心に79年向陽社を設立し,愛国社,のちに国会期成同盟の一員として藩閥政府を攻撃し国会開設請願運動を行った。81年向陽社は玄洋社と改称,平岡が社長となり,〈皇室を敬戴す可し 本国を愛重す可し 人民の権利を固守す可し〉との〈憲則〉を制定した。…

※「平岡浩太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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